お盆だ、お墓参りだというけれど…。

心が疲弊してしまう空間に行く必要はないのでは?と思うのだ。
一番近い先祖は、両親。両親への感謝がないわけじゃない。
だけど、今の私にとって、心が疲弊してしまう存在になっているのなら、距離を置きたいと思うことは自然なことなのでは?
それは、自分を守る術であって、それによって自分を責める必要は一切ないと思うのだ。
しかし、これがなかなか難しい。帰省が当たり前だったこれまでとは違って、帰らない選択をするのは、どうしたって自分を責める材料になってしまう。
あー、これかぁ!って思うことがあるのだけれど、
「いつだって母は自分の保身をしている人」なんだと。
今回、流行病を理由に「帰省しない」ことをメッセージしたのだが、返事は「おとうさんに言ったの?」だった。
これは何を意味するのか?どう捉えるのが正解なんだろう?わたしには、母が自分の保身をしていると、捉えた。
まずは大丈夫?とか体の心配をするのが母親という価値観が私の中にあるからなのだが。それは人として当然のことだろうと、私は思っていたのだが。

思い返せば、いつもそうだったなぁと、ふと寂しく悲しい気持ちになる。
あの頃のわたしも、ずっと寂しかったし、守ってもらいたかった。
お父さんに歯向かうわけじゃないけど、母親として、子どもを守ってほしかったし、そういう姿を見たかった。
理不尽な言葉の暴力から、守ってもらいたかった。ただ黙って、聞こえないふりをしている母を見たくなかったし、ただただ慰めてほしかった。何もないように過ごしている母がすごく嫌いだった。聞こえないふり、見えないふり。でも、心の奥にずーっと溜まっている不満を、本人(それは父だったり、他のきょうだいだったり)がいないところで、言ってくるのも、嫌だった。一緒に文句を言ってしまう、自分が嫌だった。自分が悲劇のヒロインになっているみたいな、そんな雰囲気も嫌だった。
母には母の、そうすることが自分を守る術だったのだろうけれども。
私はそうはなりたくない。

例えば、父からの何気ない一言。それは、じわじわと心を侵食する。
本人に悪意が無いのか、あるのか。あるなら、相当な意地悪。照れ隠しなのか、謙遜なのか。昔の日本人男性特有のアレである。
言われた方は、本当に本当に傷つく。いつもそうやって、傷をつけられてきた。傷をつけられて、さらに自分でその傷をえぐって、きた。
対処法がわからなかったし、こんなことを言われて当然なわたし、だと思ってきたから。
でも、もう、そうしない。
人生の主導権は自分にしかない。
嫌なことを言われたからって自分の心に留めておかない。聞き流す。
それより前の段階で、そういう人とは距離を置く。近づかない。自分の距離感を探っている最中なのだから、これからだ。

しかしどうだろう?聞き流す、と書いてふと、母のことを思う。
嫌なことだという認識はあったのか。だから聞き流していたのか。そして、何もなかったように過ごしていた。
距離を取ることも出来ず、ただひたすらに耐えていたのか…?例えば距離を取るということは離婚や別居を指すのだとしたら?到底無理だったのかもしれない。

いやなことを嫌だと。
その言葉は傷つくよと。
そうやって、正面から言える人に憧れるし、そうなりたい。

人が嫌がることをしてはいけませんって習うけど。昔の日本人男性は、そうう教育を受けていなかったのだろうか。教養がないだけじゃない、人の心を思いやれない人と、誰が一緒にいたいと思うだろうか。

どれだけ仕事で成功しようが、お金持ちになろうが、
人も寄り付かない人に、なるのは嫌だ。
どれだけ立派なことを言おうが、どれだけ立派な墓を建てようが、寄り付かない、想われもしない、そうなるのは嫌だ。

例え実際にお墓参りに行けなくたって、心のなかで想うだけで、良いじゃん。心が安らかに、今を生きている方を優先して良い。

熱が出たら、ベッドに横になって休むように。
心が疲れたら、休んで良いのに。なんで見ないふりをして、無理をして、嫌な気持ちになるところにわざわざ出かける必要がある?

成功者は墓参りをしているとか、
親に感謝とか、言うけど。

別に成功してたって、してなくたって、
感謝してたって、してなくたって。
今のわたしの心を守ることを優先していい。

親なんて、子どもが生まれたときに、一生分の感謝をもらってるらしいし。自分も実際そうだし。
きっと先祖もそうだろう。
お墓参りに来ないから、成功させない、なんて、そんな祖先いる?w

こうやって自分の想いを書き出して、自分の目で見て、
これはしても良いことなんだ、と、納得させようとしている自分がいる。

今はこれで良い。上出来じゃん、わたし。




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