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拙著『フェリックス・ユスポフ公爵の暗殺計画』紹介


・作品の背景について

 フェリックス・ユスポフ公爵はグリゴーリー・ラスプーチンの暗殺の首謀者です。共に暗殺を遂行した人物の中には皇族も国会議員もいました。だが、皇帝ニコライ二世、とりわけ皇后アレクサンドラ・フョードロヴナは血友病の皇太子の苦痛を癒してくれるラスプーチンに心酔しており、国政の舵を取っていたのは実質的にはラスプーチンでした。ラスプーチンの周囲の上流社会には醜聞が絶えず、その国政干渉に憤ったユスポフ公爵は暗殺を計画しました。もっとも皇室の衛兵や警察に常に護衛されていたラスプーチンを正面から暗殺することは不可能で、ユスポフ公爵はまずラスプーチンに接近し、信頼関係を築き、それから自らの宮殿を提供して彼を永遠に葬る絶妙な計画を立てました。ところで、ユスポフ公爵は絶世の美男であり、若い頃から放蕩にふけっていました。同性愛の傾向も持っており、非常に興味深い人物です。

・本文より一部抜粋

   どうやらラスプーチンは自分に並々ならぬ関心を寄せているらしいことにフェリックスは気がついた。ムーニャが素直に立ち上がって部屋を出ると、ラスプーチンは大きな音を立てて椅子ごとフェリックスの間近にやってきた。彼の手をぱっと取って、その眼を食い入るように見詰めて言った。
「どうだね、きみ、わしの家はお気に召したかい? もっと頻繁にわしに会いにきなさい。きみがわしをよく知れば、わしがどういう種類の人間かわかるだろう。きみは自分の道を見出せるよ」
 フェリックスは困惑した。長老の、自分が世の中のすべてを司って動かしているような物言いにも非常に抵抗があった。
「わたしの道ですって? グリゴーリー・エフィーモヴィチ、わたしはすでに自分の道を歩いていますよ。それは、わたしの祖先が代々行ってきたようなことでもあるのです」
 ラスプーチンは気に入った相手に対する独特の慣れ慣れしさで、両手をフェリックスの肩に置くと、子供を甘やかすように言った。
「わしを怖がりなさんな。わしは何でも出来るんだ。パパもママもわしの言うことは何でも聞いてくれるよ。きみだって、わしをもっと聞くことが出来るだろう。わしは今日、ほかならぬ彼らと会うんだよ。わしは、きみとお茶を飲んだことを二人に話すよ。両陛下はそれはそれはお喜びになることだろう!」
 それを聞くなりフェリックスの心臓は早鐘のように打ち始めた。自分がラスプーチンを訪問したことを皇后が知れば、彼女はただちにアンナ・ヴィルボワに彼と長老の意外な友情について語るに違いない。ヴィルボワはフェリックスの長老に対する真の気持ちを知っている。彼は少年時代からの顔見知りであるヴィルボワに以前ラスプーチンに対する忌憚のない意見を述べたことがあった。その時にはまだ暗殺することまでは考えていなかったが、少なくとも追放すべきであるとは言った。だからヴィルボワはこの奇妙な友情を最初から疑ってかかるに違いない。彼女の勘が良ければ彼がラスプーチンに接近した真の目的を察するに違いない。無論フェリックスは平静を装ってラスプーチンに懇願した。
「長老、どうか、このことだけは両陛下にお話にならないでください! わたしがここに来たことが両親に知られたら、わたしは非難され、困った立場に追い込まれるのです」
 ラスプーチンは苦笑した。
「ねえ、きみ、わしはきみのママは嫌いだよ。エリザヴェータと手を組んで、わしを追放しようとしているからね。きみのパパもわしが両陛下にあれこれ助言していることを快く思っていないね。だがねえ、わしは、そうしたことには目を瞑って、きみに宮廷での素晴らしい地位を約束することだって出来るんだよ。きみを大臣にしてやることだって出来るんだ」
 彼はそう言うと、片目を瞑って見せた。もっとも、この提案はフェリックスをひどく狼狽された。彼は何よりもスキャンダルを恐れていたのである。このような男に庇護されてしまったら、彼のこれまでの立場は逆転して、皇后や皇帝と同様に、ドゥーマの議員たちには槍玉に挙げられる立場になることだろう。ラスプーチンに推されて内務大臣になったプロトポポフのように。国中の誰もが知っている。皇帝が大本営に常駐している間、国政はアレクサンドラ皇后とラスプーチンとプロトポポフ、ラスプーチンの熱烈な信奉者であり皇后の友人でもある女官のアンナ・ヴィルボワによって動かされていたのである。今しも、アンナ・ヴィルボワからの贈り物である立派なイコンが届けられた。ラスプーチンは金色のオクラードで飾られた聖人画を有難そうに拝みながら言った。
「アーヌシュカはいつもわしに本当によくしてくれる。あの娘はいつもわしが必要だと思った物を贈ってくれるんだよ。そうそう、きみはどんな地位を望んでいるのかね?」
 フェリックスは困惑した。彼は宮廷での地位は一度も望んだことがなかった。これからも望むことはないだろう。まして長老の後ろ盾によってなど。とにかく今は彼の権限を探り出すしかないだろう。
「だけど、グリゴーリー・エフィーモヴィチ、あなたの一存だけで、それほど向いていないと思われる人間まで大臣などといった要職に就くことができるのですか? そんなことをしたら、ドゥーマで叩かれやしないかとわたしは心配しているのです」
 ドゥーマと聞いた途端、ラスプーチンは小馬鹿にしたように斜め下に視線を遣って、右の手をぶらぶらと振ってみせた。
「あいつらは自分たちの時間をわしを誹謗中傷するために浪費しているんだよ。そのことが皇帝と皇后を苦しめているとも知らずにな。だが、やつらはもう長くはやらないだろう。わしが間もなくドゥーマを解散させ、議員たちを前線に送ってやるからね。それからやつらは知ることになる。やつらの誹謗中傷が何に値していたのかをな。そうして、わしのことを思い出すのさ。前線で砲弾を喰らいながらね!」
 フェリックスは呆気に取られた。彼には長老が少しばかり調子に乗っているとしか思えなかった。地の果てのような田舎からペテルブルグにやって来た人間は、初めは都の繁栄に目が眩み、幸運にも権力の端くれでも手に入れたなら、これまでの田舎での人生を取り戻さんばかりに権力を振りかざし、どっぷりと放蕩に浸かるのだ。ラスプーチンも皇族貴族のサロンで魔術師としての名を馳せた後、いきなり皇后に絶大な信頼を寄せられるようになった一人である。そうして急速に政治にまで口出しするほどの権力を手にしたものだから、自分には何か本当に特別な力があるものと思い込んでいるに違いない。彼の出世には医者も匙を投げた重病の治療が不可欠だった。彼は病気のアレクセイ皇太子を何度も死の危機から救った。もしも、それが常にある種の偶然でないとしたら、その神秘の技を、その霊的な治療法の秘密を是非とも知っておきたいとフェリックスは思った。
「ああ、グリゴーリー・エフィーモヴィチ、あなたは本当にドゥーマを解散させるほどの権限をお持ちなのですか? でも、どうやってそれをやるのです?」
 すると、ラスプーチンは尊大なまでに上体をぐっと後ろに逸らせると、得意満面に語った。
「どうやってかって、きみ! きわめて単純なことだよ。きみがわしの友となり支持者となれば、きみはすべてを知ることが出来るよ。皇后陛下は実に思慮深い精神を持った強力な絶対君主でおられるが、わしは彼女からどんなことも何もかも得ることが出来るんだよ。皇帝陛下からもな。そうそう、皇帝陛下と言えば、実に単純な魂の持ち主だね。君主の才能がなかったのだよ。統治する人ではないということさ。あの方の力には余るからね。自然や花を崇めるように出来ていて、家庭生活に向いていたんだ。わしは神の祝福とともに、彼を救済するために遣わされたのだよ。今はそれしか話すことは出来ないな」
 これが権力の頂点に達して、すっかり図に乗っている人間の憚ることのない見解なのだった。だが、彼はすでにそこで胡坐をかいているために、肥満した者の贅肉が鋭敏な感覚を鈍らせるように、鋭利な直感を失ってしまったに違いない。実際彼は肥満し、荒野の修行僧のような、痩せさらばえ、死相さえ見え隠れするほどの極限に達した風貌、黒光りのする肌の奥から射してくる眼の光、すなわち、あらゆる神秘の現出を可能にする魔術師的な雰囲気や気迫をすでに宿してはいなかった。仮に、彼が嘗ては超自然的な能力を持ち、神秘を現出させることが出来たとしても、今の彼はその力を権力と引き換えに放棄してしまったのである。彼はフェリックスの両親を始め、ユスポフ家と懇意な皇族が自分を追放しようと強力に働きかけていることを知っている。それなのに、ユスポフ家の一人息子を大臣に推薦しようなどと間の抜けたことを言っているのである。どうして彼はフェリックスが両親と同じ考えを、いや、さらに過激な考えを持っていることに少しも思い至らなかったのだろう。それともフェリックスの演技があまりにも完璧だったので、彼はその憎悪に満ちた本心を露ほども疑わなかったのだろうか。いずれにしても、長老がフェリックスに好感を抱き、信奉者にしようとしていることは確かであった。彼の夫人イリーナは皇室の一員であり、ラスプーチンにとって皇帝に近い者たちを次々と自分の勢力下に置くことは、皇族の中での彼の立場をいっそう有利なものにすることだろう。
「では、グリゴーリー・エフィーモヴィチ、あなたは皇帝皇后両陛下を思いのままに動かせるとお思いなのですか?」
「もちろんだよ!」
 ラスプーチンは得意満面の笑みを浮かべた。
「わしがいなかったら、彼らはとうに死んでいたよ。わしが、あらゆる危険を察知して彼らに警告しているんだ。だから、ねえ、きみ、彼らはわしを愛し尊敬しているのさ。わしに主の聖油を贈ってくれたよ。わしを救済するためにな。だが、もしも彼らがわしの意思に従わなかったら、わしはテーブルを拳固で叩いて立ち去るのさ。わしはある男に役職を与えるべきだと言ったのだが、彼らはその指名を常に先へ先へと延期していた。もちろん、わしは彼らを脅したよ。『わしはシベリアに去るからな。おまえらはここに残って、すべてを腐敗させればいい。おまえたちが神に背けば自分の息子を失うだろう。それから悪魔の手中に堕ちるのさ』 彼らはわしの後を走ってきて懇願した。『行かないでくれ、グリゴーリー・エフィーモヴィチ! われわれはあなたの望むことなら何でもやるよ、あなたがわれわれを見捨てない限り!』 これが彼らに話すわしのやり方だよ。だが彼らの周りにはまだまだ悪いやつらが大勢いる。やつらときたら、彼らの耳に噂を囁くことしかしないのさ。グリゴーリー・エフィーモヴィチは悪人だ。彼はロマノフ朝の滅亡を望んでいる。ふん、馬鹿げている! なぜわしがお二人を破滅させなければならんのだ?」
 長老の言葉の端々に窺うことの出来る驕りにフェリックスは次第に耐え難く憤りを募らせていったが、言葉を慎重に選び、辛辣な助言者の役を演じた。
「グリゴーリー・エフィーモヴィチ、皇后と皇帝があなたを信頼し、愛しているだけでは十分ではないのですよ。あなたは国民すべての愛と信頼を勝ち得なければならないのです。ところが、世論はあなたを容赦なく叩いています。海外の新聞も同じです。対ドイツ戦が始まる前から、あちらの新聞は皇帝夫妻を揶揄し、あなたを攻撃していたのです。どうです、長老、もしもあなたが本当に君主を愛しているのなら、あなたは彼らの許を永久に去って、シベリアに帰るべきではないですか? わたしはあなたの為を思って忠告するのですが、今のままでは、誰かがあなたを過酷な運命に追い遣ってしまうことでしょう」

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