自我と五蘊

私たちは日々いろんなトラブルに付随する苦悩に苛まれながら
問題の解決にいそしんでいます。
しかし、悩みを捉えれば捉えるほど苦悩は深くなり
孤立感が強くなったり他者への理解が浅くなったりします。

では、その苦悩の原因は何か?
答えは自我があるという錯覚に気づくことにあります。
私たちが普段自覚している自我のメカニズムを理解できれば
苦悩する時間を減らし、問題の解決までへの道のりが楽になります。
今日はそんなお話。

自我について

自我は他者との分離意識や現実への苦しみ
を生じさせるためのプログラムです。
そもそも、「苦しみ」というのは満たされなさや
誤解、偏見、執着などの抵抗感から生まれてきます。
この抵抗感(分離意識)は自分と他者を分けることで
『自分がある』という感覚を作り、
「あなたと私」という隔離や否定を
ベースにした判断材料を持ち込むことで
孤独感などの原因になっていきます。

反対に、「あなたと私は違う!!」という抵抗感がなければ
向かい合っている人からのリアクションが想定外のものでも
それほどストレスは感じなかったりします。
心を許している人の大体のことがストレスなく許せるのは
相手との境界がより曖昧である為です。

一方で、大きなストレスを感じながら相手と対峙しているときは
大体は自我システムが強く作動し分離意識を強固にしています。
孤独感や攻撃性のある気持ちがわいてくるのはそのため。
相手を拒絶したり攻撃したりすることは、
心の中で分離をより確かなものにします。

自分との終わらない戦い

もう一つ、自我は欠点を見つけて何かを操作したがります。
そのため、人生の操作権や抵抗するための技術力を欲します。
今を変えたいと渇望しながら延々と自分探しやダメだしを
し続けてる、そんな経験はありますか?
その時には自我プログラムがバリバリ稼働中です(笑)

①(分離感により軋轢が生じて)人生は苦しいものだ
②コントロール権がないor操作が下手だから苦しみから解放されない
③好転させたいからもっとコントロール権or操作技術がほしい
④解決させるために情報収集に取り組む
⑤なぜか解決されないorもっと大きい問題が出てくる
(②~⑤をループする)
という仕組み。
結局のところ、①の分離感を取っ払わないと悩みからの解放はされない。
悩みの根本は目の前のハプニングや事故ではなくて
自我による分離感から生じる『拗れ』なのである。

悩みからの脱却

仏教では、自我があるという幻想・錯覚から覚めなさい
ということを主に言っています。
そのコツは、諸行無常・諸法無我を落とし込むこと。
この世において固定されるものはなく、実体もない。
という摂理を説いた視点。
前述のとおり、自我は何かを操作・固定したがるため、
自我を主体にし続けることは摂理に反したこととなり
苦悩を強くし続けてしまうのと同義だということ。

同じことをもう一つ
五蘊盛苦(ごうんじょうく)、五蘊皆空(ごうんかいくう)
という言葉もある。
五蘊というシステムが盛んになることにより
自我プログラムが強く作動しすると、
摂理に抵抗する力が大きくなって苦しみが増すよ。
反対に、そんなに作動していないときは
まっさらな気持ち(苦しみが少ない状態)でいられるよ。
ということ。じゃ、その五蘊とは…

五蘊(ごうん)について

五蘊は自我を発動させるためのシステム。
色、受、想、行、識の五つからなる集合体。
これは独立して稼働するものではなく
それぞれが複雑に絡み合って動作する複雑系の概念。
(ハードウェアとソフトウェアの関係のように、
 どちらか一方だけでは動かないものを複雑系という)

この五蘊から生まれる自我は、複雑系がベースになっているので
主体のあるものではない。その時々で状態が違うのもそのため。
一口に「私」と言っても、意見が違ったり好みが変わったり
一定であることはないので、本来自我は特定できるものではない。
自分という『持ち主』は、そもそも存在しないということ。
そういう状態がただあるというだけ。

自我の本音

自我の本音は「あってほしい」という願望。
自分という存在がなかったら
誰が証明してくれるの?責任を取ってくれるの?
何のために頑張ってるの?向上・発展させてるの?
と、あれこれ理由をつけられなくなってしまう。
生きてきたことさえ否定されているような気持になってしまう。

『ない』ということを認めてしまうのが怖い。
ほんとうは、ただそれだけ。
感覚が在るだけ、存在が在るだけ
状況が在るだけ、問題が在るだけ
空間が在るだけ、ないが在るだけ
在るがままで在るだけ

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