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『ハーレイクインの華麗なる覚醒』はハーレイクインの映画だった(ただバーズオブプレイの映画といわれると非常に回答に困る映画でもあった)

 この前、「ハーレイ・クインの華麗なる覚醒」を見た。とりあえず感想を一言であるなら「ちゃんとよくできたハーレイクインの作品だな……」というものだった(作品のテイストとしては汚いチャーリーズエンジェルなのだが)。

 もともと、この映画は企画からして二転三転しており、その様子を見ていた私も「大丈夫かな……」と心配していたのであった。というのもこの映画、実は当初の企画ではハーレイクインが主役でなく、「BIRDS OF PREY」というバットガール(バーバラ・ゴードン)とブラックカナリー(ダイナ・ローレンス)そしてハントレス(ヘレナ・ベルティネリ)の3人を中心にした、ゴッサムの女性ヒーロー・ヴィジランテチームが主役の企画の映画だったのだ。本来の筋書きならばジョスウィドン監督の映画「バットガール」でバーズオブプレイの中心的人物である、バットガールが紹介された後、大々的にバーズオブプレイが公開され、チームアップがなされる……。のだが、当の映画「バットガール」の監督であるジョス・ウィドウが映画を降板し、さらに監督が未だ決まらずにライターが決まっただけという状況になってしまったのだ。その結果として、ある意味ピンチヒッター的にハーレイクインがバーズオブプレイの主役となり、この映画が公開される運びとなったのだ。そして完成された映画を見て思ったのは、「いくつか気になる所はあるが、中心に添えられたハーレイクインは少なくとも既存のファンにとって満足いくものになっているのでは」ということだった。

 これは、恐らく映画のプロダクションの段階で、ハーレイクインの役者であるマーゴット・ロビーもプロダクションに加えることで、完全にバーズオブプレイの映画としてではなく、「ハーレイクイン」の映画として再設計されたのでは、と思えてならなかったのです。そしてそう考えれば、映画におけるバーズオブプレイの立ち位置が映画の本筋的に脇役(アメコミでいうところのゲスト出演)に収まっていることにも納得のいく理由だと、私はおもったのだ。……ようは映画の題名がアメリカの原題よりも日本の方がしっくりとくるものになっているということなのだ。

 さて、映画「ハーレイクインの覚醒」、ハーレイクインといえば日本でも有名なイメージとして「ジョーカーの恋人であり、彼がどれだけ彼女にひどいことをしてもゆうことを聞くという恋に盲目な人物」、というものがある。映画ではここから一歩踏み込んだところから始まる。ハーレイクインがジョーカーに振られ、更にそれが世間にバレた結果、彼女に恨みを持つゴッサムの犯罪者たちが彼女を追い掛け回され、更にそこに何人かのゴッサムのヒーローも絡み事件が大きくなっていく、というのが基本的な本筋だ。

 そもそもハーレイクインの本質とはなんであろうか? ジョーカーに惚れ込んだ馬鹿な女というのが彼女なのであろうか? もちろんジョーカーに惚れたことから始まったという事実は覆しようもない。そこでよくある勘違いが「ハーレイクインはジョーカーに惚れなければ狂人にはならかった」というのがある。一見正しいように見えるが、これには大きな誤解がある。ハーレイはジョーカーと関係なく初めから狂ったヴィランなのだ。

 というのもこれは別に最近のDCの方針から来ているものではない。それを明示しているのは「Batman:Animated Series」の「Harley's Holiday」というエピソードだ。これはハーレイが更生を志し、普通の人として過ごそうと努める……。そういったエピソードなのだが、結局のところ彼女は一般的な日常になじむことが出来ず、元のヴィランとならざる得ないという話なのだ。このエピソードで、特に重要なのはハーレイがヴィランに再び立ち返るのが、ジョーカーとは何の因果関係はないということだ。

 ジョーカーが望めばなにものにもなる、というのは実はハーレイ自身も含めて勘違いをしている点であるのだ。これは先の「Batman:Animated Series」で、他のエピソードでもジョーカーに反逆を何度かしたり、愛想を尽かしたりしている(むろんそのエピソードのうちで元さやに戻っているのだが)。それだけでなく、時にハーレイはバットマンのほうに自分の意思で肩入れすることすらあるのだ。つまり原典からしてハーレイクインは必ずしもジョーカーに従属的でなく、ジョーカーはハーレイが自己表現をしようとすると、大抵の場合邪魔したり、自分の都合のいいように意思を折り曲げようと努めるのだ。

 もちろん、ハーレイがジョーカーにいつまでも盲目になる、ということも彼女の物語ではありうる。だが、ハーレイクインという個人を掘り下げるとき、ジョーカーは障害かもしくは乗り越えるものとしてでしか、機能を果たさないのだ。

 この映画でジョーカーは直接的には登場しない。もちろん、これはスタジオ側の様々な亀裂から生まれた部分も大いに関係する。しかし、この映画ではハーレイを掘り下げるという点においては、むしろ大きく作用しているとも思えるのだ。ジョーカーというハーレイの意思決定を変更する存在がいなくなったことで、ハーレイはハーレイ自身も自分の本質と向き合わざるえなくなる。その結果、他の映画やアニメにおいては妨げられていたハーレイの自己意識が前面に出ることで、自分自身の良いところ、悪いところを見つめることができ、「大いなる覚醒」に至るようになるのだ。

 ……とまぁハーレイクインとしては実は非常によくできていると思うのだが、この映画の元来のバーズオブプレイに関しては、先にいったように本当におまけな感じである。キャラクターの造形に関してもハントレスを除いては大胆な改変がなされている。特にカサンドラに関していえば「誰ですかあなた?」ってぐらいの改変ぷりである(といってもブラックカナリーはアローバースだと無惨にも殺されているのと比べると、本来のダイナに近いしましといえばましではあるのだが……)。

 しかしことこの映画に限って言えばおまけ的に描くのは正解だったのではないだろうかなとも私は思うのだ。そもバーズオブプレイにおけるコアメンバーであり手綱役、ジャスティスリーグでいう所のスーパーマン、アベンジャーズでいう所のキャプテン・アメリカ、であるバーバラ・ゴードンがいないため、バーズオブプレイはバーズオブプレイとしての力を発揮できないのだ(手綱役であるバーバラがいながためにハントレスもブラックカナリーも原作以上にバンバン人殺すし)。だからハーレイと組んだのもその場しのぎ的に演出したのは正解であるし、ハーレイをコアメンバーとして完全に置き換えないで、ゲスト的な扱いにしたのは、非常に原作に対して誠実な態度であると思える。

 そんなわけでやっぱり最初に邦題で「ハーレイの覚醒」にした日本の会社はアメリカの配給組よりもよくわかってるな! っという感じにこの話を終わろうと思う。

 



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