思いと現実の世界
・私はいつの頃からか、人生で経験するさまざまな現象を、「思い」と「現実」という2つの言葉で整理するようになりました。
「思い」や「現実」という言葉で何をイメージしているのか?と言うと、
「現実を変えたいという思いがある。しかし、思い通りにならない現実もある。」
こんな感じで使う時に、イメージしているものととりあえず言ったらよいでしょうか。
現実を変えたいという思い
人は、英語を話せるようになりたい、お金持ちになりたい、勉強ができるようになりたい、~みたいな人になりたい、と思います。そして、そうなった自分を想像してひと時、良い気持ちになります。そのように思ったりすること、そして思った状態も、「思い」の世界です。
「思い」の世界とは、飛行機にならなくても空を飛んだり目指す山の頂上に一気にひとっ飛びできる、過去の世界に行く事もできる、文字通り思いのままに自由に動ける想像の世界です。また、テレビで見る華麗な動きや姿のスターを思い浮かべ羨ましく思うのも「思い」の世界です。
思い通りにならない現実
一方、何かの想いに耽っていて何かの拍子にふと現実にかえることもあります。他人の言葉であったり、ある出来事がきっかけで我に返るわけです。我に返ると、想像の世界で活躍している自分や思い出す誰かの輝かしい姿とは別の日常にいる自分に気がつきます。今の自分の状態や心持ちに気がつきます。「現実」の世界に引き戻されるわけです。
今の自分と比較して、自分が想像上の状態とはかけ離れていることにがっかりし、「このまま今のあり方じゃいけない」と焦ってしまうこともあります。場合によっては深く悩んでしまう。自分はダメな人間だ、と思って先が見えなくなってしまう。そういうこともあるでしょう。
思いか現実かの膠着状態
このように先が見えなくなってしまった状態は、言ってみれば、思いと現実のバトル状態、膠着状態といった体で、そこで、袋小路にはまってしまうわけです。考えが先に進まなくなってしまいます。
誰にでも一度や二度必ず体験することではないでしょうか。
思いと現実の違いという問題
その膠着状態を抜けて、さらに考えを先に進める道はないか?
ここでは、「思い」と「現実」を区分して考え、その2つの世界で何が違うのかもう少し突き詰めてみることで、袋小路から抜け出すことを考えてみたいと思います。
よく、理想と現実は違う、と言われます。この言葉は、理想に向けて頑張っている人の足を引っ張るために使われているんじゃないかと思わせる時もありますが、一面で真理も突いているように思います。
つまり、確かに、2つの違うあり方が存在する。想像上の思いの世界と現実の世界では何かが違う。
考えてみたいのは、その違いは何か、ということです。
これが第一の問題です。
思いと現実のそれぞれの役割
この問題に関して、私の考えはこうです。
思い出してみましょう。
現実の世界では、今できることを一歩一歩やるしかない。
「千里の道も一歩から」です。
これは、現実の世界のあり方を述べているわけです。
そもそも現実の世界では、できることが決まっています。
できることしかできません。それも、「今」でしかできません。
でも、「思い」の世界では、およそ思い浮かべる事ができるものは何でもできる。しかも、想像した世界に入り込んでひたることもできます。その感覚はそれ自体で身体的・体感的な幸福感・充実感あるいは悲壮感も与えてくれる。(それは確かに、五感的なものとは違うが)
また、「思い」の世界では、自分の思い通りに話のつじつまを合わせることができます。完璧な整合性を実現することができるのです。「思い」の世界には、「現実」の世界にあるような不覚の事態も、不意打ちも、想定外もありません。身体の状態や気分によって思い切り楽観的になったり、思い切り悲観的になってがっかりしたりして、自由に想像を膨らませることができます。
(ここで、「自由に」という意味は、そもそも悲観的なものであれ、楽観的なものであれ、「現実とは関係なく頭の中だけで作れる」という意味です。多くは身体内の状態による影響でしょうが。)
「思い」の世界では、あれこれ想像することができますが、それだけでは「現実」の世界に何か影響が生じ、変化が起きるわけではありません。その意味で「思い」の世界は完結していて、「現実」の世界とは切れています。
一方、「現実」の世界では、ちょっとした動きでも手を動かしてコップを動かせば、確かに現実を変えることができます。ただし、時間と空間の様々な具体的な制約を受けながら行動する他ないという性質があります。
こういう意味で、思いの世界は、現実の世界とは別のものです。
思いと現実の違いにどう向き合うか
そこで、大まかにこういう本質的な違いがある「思い」の世界と「現実」の世界にどう向き合ったらよいでしょうか?
それが次の問題です。
心地よい「思い」の世界にひたり続けるべきでしょうか?
それとも、ともかく後先考えず現実社会に出て、手あたり次第行動しまくるべきでしょうか?
(ちなみに、個人的には、このあり方も魅力的です。現実とは、そもそも私の考えでは、思いを超えて思いを包んでいる存在、あるいは作っている存在です。その意味で、不可解な面はありますが、その分、豊かで発見に満ちた世界だからです。固い頭では得られない解決策の気づきを与えてくれるのも現実の世界だと思っています。)
思いと現実の両方に配慮する方法
私が提案するあり方は、「思い」の世界の役割を理解して、その範囲でよりよく活用して、「現実」の世界に生きるというものです。
思いの世界の役割は、何をやるかを知るための目標やそれを実現するための具体的方法を計画する事であって、それ自身は何かを実際に行う働きはありません。
あるいは、こう言ってもいいかもしれません。思いの世界だけでは物事は完成しない。計画を持って現実に世界に入って行動してはじめて実現する。
「思い」の世界で示された現実の世界の動きの仕組みやそれを基にして作った目標や方法にそって、今できる事を一歩一歩積み重ねる事。これが「現実」の世界で行うべき事だと思うわけです。「現実」の世界ではそれしかないし、それを行う事が「思い」を叶える唯一の方法なのだと思っています。
「このままじゃいけない。でも、やり方がわからない、どう考えていいかわからない」という焦りは、「思い」の世界と「現実」の世界のそれぞれの効用と限界を知ることで解消できるのではないでしょうか。
必要なのは、「思い」の世界と「現実」の世界の協力関係。これができていれば、安心して今日も良い眠りを得ればいい。これが、私の場合の心の整理法でした。
思いの世界の力
ところで、「現実」のあり方を無視して「思い」の世界に没入してしまうというあり方に、人はなぜ引き寄せられてしまうのでしょうか?
「千里の道も一歩から」という当たり前の事が、なぜわざわざ諺として言われるのでしょうか?
「思い」の世界は想像の世界であり、その想像の世界では、今できない事もかるがるとやることを想像できてしまう。そして、それを自分の力だと思ってしまう事もできる。また、それなりの体感的な快感も実際に生じるわけです。つまり、けっこうな誘惑の力があるというのがその理由かと思います。
でも、もし、心で本当に求めているのが、「現実」での自分なら、「思い」の世界での自分は幻想です。この幻想に気がつく事、これがまず第一歩と言えるのではないでしょうか。
思いの世界の力を強く持っている人ほど、はじめはこの幻想に惑わされやすい。元々、想像力にあまり振り回されない人は、この幻想に惑わされる事もなく、現実的に考えることができるのかもしれません。
(とは言え、私は、幻想、あるいは想像の力も大切だと思っています。幻想であってもあるいは幻想であるからこそ心を癒す力があると思っています。
それに、目に見える現象だけでは、多種多様な事態が整理されずに転がっているだけしか見えません。見えないものを想定してそれで雑多な現象をつなぐ必要があります。その時必要なのは、想像の力です。科学の理論もそうやってできていると思います。ただし、その想像が、現実との検証を踏まえて地に着いているところが、科学が単なる物語と違うところだと思いますが。
ともかく、なんでもそうかもしれませんが、ものは使いよう、TPOに応じた使い方が重要でしょう。)
まとめると
・思いの世界と現実の世界は異なることを理解する。
・思いの世界が作る想像による幻想に気をつける。
つまり、思いの世界だけで物事が実現すると勘違いしない事。
想像の世界は、現在だけでなく過去未来に分けて、不可能な事も思い通
りにできる世界である。
・現実の世界のルール、すなわち、今できる事しかできない。一歩一歩し
かできないいルール、を理解する。
・思いの世界の想像の力を効果的に使い計画を作る。
現実の世界では、目の前のことしか集中できない。
時間的な因果や影響、目に見えない原因や影響についての認識力は弱い
欠点がある。
それを補完して、計画を作るのが、思いの世界の力である。
・計画を、現実の世界のルール「一歩一歩今しかできない」事に落とし込む。
・実行は、あくまでも現実世界のルールに従い、一歩一歩行う。
(それしかない。)
ちなみに
最近、ビデオで「テスラ」という映画を見ました。
テスラとは、エジソンの直流方式の送電に対して交流方式のよる送電を推進した人の名前です。その中でJPモルガンという投資家のセリフがあります。
「私は現実主義だが、無謀さも崇拝している」
私は、これを、思いの世界できちんと現実の動きに合わせて合理的な計画を作り、それを基に行動することは大事だが、現実に対するときには、時として非合理的な行動が必要な時もある、と理解しています。
現実に対するときには、合理的行動だけでなく、時としてクレイジーなくらいの熱量を持つ「本気」をだすことも必要なのかもしれません。
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