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共感性とチェンソーの話 4/28の日記

足元に鳩が来た。
普段はお年寄りが餌をやったりなんだりしているような公園だからか、ベンチに座った瞬間、さながら奈良公園の鹿の如く足元に寄ってきた。
お前たちに野生の誇りはないのか。
狩られる側としての自覚はないのか。
そんなことを目で訴えかけてみるも、話半分に首をひたすら縦に振る始末。
というか近い。
本当に近い。
うちではペットを飼っていないので、友人宅でしか動物に触れる機会はなかったけれど、そこの犬でもここまで近づいてくることはなかった。

たぶんそこは蹴り飛ばそうと思ったら出来る距離だぞ。
なんかもう、なめられているとかではなく、物だと思われているような気がする。
動物から見ても警戒されず物扱いされるというのは変な気分だった。
というか本当に近い。
人間だとけっこう嫌な距離だ。
動物でもまあまあ嫌な距離だ。

犬も結構距離を詰めてくるなあと思う。
あれはなんというか、愛されたんだろうなという結果に見える。私が拒否されるわけがない、自分を可愛がる人間がまた増えた、と思っている。
猫はそのあたりどこ吹く風、という感じである。
だから私は猫の方が好きだ。
個体によっては全然甘えに来るのもいるのだろう。
面倒臭いくらい作業を邪魔しに来るのもいるという。
なんだかふわっとした経験しか知らないのは、私が結構な猫アレルギーだからである。そこに猫がいた部屋や、猫を飼っているであろう人が場合によってはわかるくらいには重度で、ほとんど触ったことがない。

猫は120%自分の都合でしか動いていないので共感が持てる。

人によって態度を変える人は嫌われがちだと思うけれど、誰にでも同じように接する人はそれはそれでおかしいと思っている。
その点、全員に違う態度で接している人は、それはそれで振り切っていてすがすがしいなあと思ってしまう。平等に接しない代わりに100%気まぐれで接するような人も、それはそれでありだと思う。



悪魔のいけにえを見た。
古いホラーはひたすら追いかけられてひたすら怖い思いをして終わったりするのがいい。
清々しい。

こういう痛い思いをする系のホラーでよく抱く感想として、
「チェンソーで刻まれるシーンより、爪とかはがされるシーンの方が痛そう」と思う。
これは普通の感覚なのだろうか。
想像がつかない痛みよりも、想像のつくぎりぎりの痛みが一番痛そうに感じる。
ネタバレになるかわからないがSAW2のシーンでも、火炎放射器で焼かれるよりも、たくさんの汚い注射器が手足に刺さるシーンや、手を突っ込んだ穴の縁がカッターナイフになっていて切れるシーンの方が「うわあ」となった。

これって普通の感覚じゃなかろうか。
世界を救う達成感よりも、3キロ走り切った達成感の方が共感できそうな気がする。
どうだろうか。

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