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「ノルウェイの森を30回読む男なら俺と友達になれそうだな」と言ってくれる友達が欲しかった

年間数十万円以上を本に費やす読書好きの両親から、好きな本はいくらでも買って良いと言われて育つというこの上ない環境ブーストを効かせてもらったにも関わらず、大して本を読まない人間に育ってしまったことを長年恥じている。
ここでいう「大して本を読まない」というのは、松岡正剛や立花隆のような読書遍歴をビジネスに活用できるレベルを想定して言っているのではなく、「自分の目標としている量や質を達成できないでいることを、自分でも許容してしまっている」という自責めいた感情から生まれている表現である。
20歳くらいまではとにかく暇だったので、つまらない本も我慢して最後まで読み通し、結局つまらなくても何か一仕事終えたような気持ちになれてよかったし、何より数をこなすことにも意味があるような気がしていたのだが、ここ最近はつまらない本を読み終えてしまうと、自分の人生の何か大事なものが損なわれてしまったような嫌な気分になるので、手を出す本の吟味はかなり慎重になっている。
要は、読書体験に求める水準がインフレ気味なのである。
本自体の面白さもさることながら、読むきっかけも同じくらい重要なので、変化の少ない日常にそんなストーリーが都合よく転がっているわけもなく、畢竟益々読まなくなるという悪循環。

本にはコミュニケーションツールとしての側面もあり、私はどちらかというとそちらを重視して本を読んでいたように思うのだが、日常的に感想を言い合えるような環境から遠ざかって久しいので、読む気がしないのも仕方ないかもしれないし、そういう意味で言えば誰かと共有したいような本で読みたいものがないというのが今の気分の正体にも思えてくる。
誰かと共有しなくてよいのであれば、自分がこれまで良いものと考えてきた「網羅的に名著or話題作orその関連等を自分の趣味から多少外れていても読んでいくのが大人のあるべき研鑽の姿」や「読書を趣味と言うなら岩波文庫の1/3くらいは読んでないとな!」みたいな基準から離れて、好きなものを読むなり、なんなら同じものを延々とループしてもいいかなとこの文を書きながら思い始めている。
新しい本を読むのが苦痛なときは、一旦ノルウェイの森を読んで調子を整えることにしていたが、気づけばその回数は30回を超えていた。
初めは読み切るのに一日がかりで、読了後は疲れて寝る日々だったが、いつからか数時間で読み切れるようになり、代わりに祈る時間が増えた。祈る部分は嘘だが。
グレート・ギャツビィを3回読む程度で刺激的な友人が得られるのであれば、ノルウェイの森を30回読んだ私にはどんな出来事が待っているのだろうか。何も待っていないんだろうけど。
とりあえず、明日から職場の昼休み用として「筑摩世界文学大系71 イェイツ エリオット オーデン」と「懐かしい年への手紙」を持って行こう。
何か間違っているような気もするが別にいいだろう。



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