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マスク、どこにも売っていないのにみんなつけている

マスクがどこにも売っていない。

今、世間では不織布マスクが大流行している。街を歩けば、すれ違う9割の人がマスクを着けている。
残りの1割は俺と同じはみ出し者だろう。

みんなこぞって、何かに取り憑かれたようにマスクを求めている。中には早朝から販売店に並んで入荷を待つ人もいると風のうわさで聞いた。

何か彼らをそこまでかき立てるのだろう。売っていないものを、みんなどんなマジックで入手しているのだろう。まるで就職と結婚のようだ。


人間誰しも一定の年齢になれば自動的に就職して社会人となり、そして結婚するのだと、子供の頃の俺は思っていた。

だが現実は違っていた。

特にやりたいことも何かにかける情熱もなかった俺は就職活動で惨敗し、心を折られて無職のまま卒業だけしてニートになった。同級生のなかには大手企業に就職した人も何人かいて、誰々の年収は800万だ1000万だという噂が聞こえてくる。大手でなくても、それなりの企業に就職した友人は早々に結婚して家庭を築いていた。

俺はそのどちらの人生イベントも経験していない。幸いなことに祖父が不動産を持っているからなんとか生活しているが、当たり前のように就職も結婚もできない人生に若干の不安も感じていた。

そのうえ、一枚のマスクも持っていない。なのにインターネットの世界では「○○に就職しました」「○月○日に入籍しました!」「マスク着けてないやつ常識ないの?」という言葉で溢れている。一体どういう人生を歩めば、まともな社会人としての人生、そしてマスクが手に入るのか。

人間関係を維持するのが苦手な俺は、すでに就職や結婚といった人と関わるイベントは諦めていた。だが、それならばせめてマスクだけは手に入れてみたい。なのにどうやったらマスクを買うことができるのかがわからない。

「マスクで顔を覆わないなんて死ぬ気なの?もしくは私を殺す気なの?」
マスクをしないまま街を歩いていると、そんな声が聞こえてくるようだ。きっと幻聴だ。なのにすれ違う親子の目線は、俺を病原菌か何かのように睨みつけてくる。マスクを着けていないというだけで!

ああ、そんな目で俺を見ないでくれ。ただ、マスクを手に入れる努力ができないだけなのに。

どうやればマスクが手に入るのか?俺が知らないだけで、就職や結婚と同じようにみんなマスクの流行を予測していたのか?9割もの人が?とても信じられない気持ちでいっぱいだ。

家族にも聞いてみたが、「そんなことよりバイトでもいいから早く見つけろ」の一点張りだった。マスクをしていないと面接さえ受けさせてもらえないこの時代に、どうやってマスクを持っていない俺が仕事を見つけられると思うのだろう。

そういえば、両親は最近家にいることが多くなったような気がする。祖父は毎日元気に出かけているが。


ある日、近所にマスク専門店ができたとニュースで見た。
どこを見てもマスクマスク。真っ白で清潔な不織布マスクが山積みになっている。

マスクさえ着ければ、俺も「普通の人」の仲間入りができるかもしれない。そんな淡い期待を抱いてマスク専門店に行ってみたが、朝から大勢の人がマスクを買うために行列を作っているのを見て早々に諦めた。

結局俺は一枚のマスクも手に入れることができずに帰路についた。

他人と近づいたり、話すことが耐えられない。もともとの性分だが、最近とくに悪化してきたように思う。なのにあの行列に並ばなければ、マスクを買うことさえできない。マスクがなければ余計に悪目立ちして、肩身の狭い思いをすることになる。

どうにもならない悪循環と、誰もが持っているものを持っていないという疎外感で、最近では夜もなかなか眠れないようになったし、やたらと保存食が多くなった食事も、喉が通らなかった。無理やり食べると吐き気がした。


あらかじめ準備しておいた?花粉症だから元々持っていた?そんな回答を聞きたかったんじゃない。マスクを持っているという自慢なんて聞きたくない。俺はただ、今すぐマスクを手に入れる方法を知りたいだけなんだ。


1週間後、祖父が死んだ。流行り病だった。
このバカみたいに管理された社会で流行り病なんて冗談だと思うかもしれないが、この世界には実在していて、それに感染した祖父は死んだ。ついこの間入院するまで元気で、毎朝早くに友達と散歩に行くなんて言って出かけていたのに。


祖父の遺品を整理していたら、押入れから大量のマスクが出てきた。それを見て、俺は察した。祖父が毎朝「友達を散歩にいく」と言って出かけていたのは、マスクを買うために並んでいたんだということ。そして、そのマスクを俺たち家族に分けるつもりで使っていなかったこと。


遺品の整理が終わったある日、俺は祖父の残してくれたマスクを着けて、近所の本屋に面接に行くことにした。小さい店だが、俺の好みの漫画がおいてある品揃えのいい店だ。

当日、電話もメールももつながらなかったので履歴書を持って店に行った。

本屋は閉店の張り紙がしてあり、本屋の跡地にマスク専門店が建つことを知った。


俺は祖父のマスクを全部捨てた。





※この物語はフィクションです。実在する人物、団体、ウイルス、その他諸々とは一切関係ありません。

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