柳澤健(1960.3.25- )『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』集英社 2016年5月刊 352ページ 『小説すばる』2013年11月号~2014年11月号連載(全16回) Bud Powell (1924.9.27-1966.7.31) "'Round Midnight" (1954.12.16) (1962) モノクロ動画 日記 2016年6月26日 蘆鴨の羽風になびく浮草のさだめなき世をたれかたのまん 新古今和歌集 巻第十八 雑歌下 1708
日記
2016年6月26日
午前2時25分起床
室温22.3度 湿度69%
体重49.9kg BMI 18.6
スクワット12回 懸垂2回
61歳5か月
庭のブルーベル
20116年4月8日撮影
Bud Powell (1924.9.27-1966.7.31)
"'Round Midnight" (1954.12.16)
Jazz Original (1955)
https://www.youtube.com/watch?v=W4l4Gemwb7o
https://en.wikipedia.org/wiki/Jazz_Original
https://ja.wikipedia.org/wiki/ジャズ・オリジナル_(バド・パウエルのアルバム)
Bud Powell (1924.9.27-1966.7.31)
"'Round Midnight" (1962) モノクロ動画
Bud Powell: In Europe, Paris 1959 - Copenhagen 1962 [DVD]
https://www.amazon.co.jp/dp/B000EQ5VM2
https://www.youtube.com/watch?v=TEPTvRf1m6M
蘆鴨の羽(は)風になびく浮草のさだめなき世をたれかたのまん
能宣朝臣
題しらず
新古今和歌集 巻第十八 雑歌下 1708
「蘆鴨の羽ばたく風に片寄る浮草があてもなく漂うように、うつろいやすいこの世を誰が頼みにしよう。」
『新日本古典文学大系 11』岩波書店 1992.1 p.498
能宣集「冬、旅に侍る所にて池に水鳥のゐるを人々思ふことにつけて歌詠むに」、五句「たれたのむらむ」。
蘆鴨 鴨または蘆辺の鴨。
「蘆鴨」に寄せる述懐。
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ 921-991)
平安時代中期の貴族・歌人。
伊勢神宮祭主。後撰集撰者。
拾遺集初出。勅撰入集百二十首。
隠岐での後鳥羽院による『時代不同歌合』では祝部成仲(はふりべのなりなか)と番えられている。
小倉百人一首 49 「みかきもり衛士のたく火の夜はもえ昼はきえつつ物をこそ思へ」
http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/yamatouta/sennin/yosinobu.html https://ja.wikipedia.org/wiki/大中臣能宣
2013年の立春、
2月4日から毎日一首づつ読み始めた
新古今和歌集の通読(つぶやき)が
四年かかって終わりました。
https://bookmeter.com/mutters/153791951
https://bookmeter.com/mutters/153744722
全二十巻
春夏秋冬賀哀傷離別羈旅恋雑神祇釈教
1995首
明日から再読
2017.3.26
林美雄(1943.8.25-2002.7.13)
https://ja.wikipedia.org/wiki/林美雄
柳澤健(1960.3.25- )
『1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代』
集英社 2016年5月刊
352ページ
http://www.amazon.co.jp/dp/4087816109/
「1970年代、若者に絶大な人気を誇った
TBSの深夜ラジオ番組
『パックインミュージック』。
伝説のパーソナリティ・林美雄を軸に、
有名無名の人間模様を描きながら
70年代カルチャーの実相に迫る青春ノンフィクション。
【目次】
I
夜明け前に見る夢
ミドリブタニュース
パ聴連
II
「林パック」誕生
同期は久米宏
TBSと深夜放送
ラジオ・パーソナリティ
III
深夜の王国
八月の濡れた砂
ユーミンとセリ
やけ酒
歌う銀幕スター夢の狂宴
邦画再興
IV
夏もおしまい
荻窪大学
あの日にかえりたい
サヨナラの鐘
サブカルチャーの水先案内人
お月様
あとがき」
『小説すばる』
2013年8月号~2014年11月号
連載加筆修正
『完本1976年のアントニオ猪木』文春文庫 2009.3
『1985年のクラッシュ・ギャルズ』文藝春秋 2011.9
『1993年の女子プロレス』双葉社 2011.6
『日本レスリングの物語』岩波書店 2012.5
の著者(1960年3月25日生まれ)による、
1970年代の深夜放送
「TBS金曜パック第二部、水曜パック第一部」の
林美雄(1943-2002)を描いたルポルタージュ。
全16回分を連載時に読んでましたが、
347ページを三日間かけて読み通し、
加筆部分とあとがき・主要参考文献・資料
を楽しみました。
私より五歳若い、
1960年3月生まれの著者は
「TBS 金曜パック第二部」
(1970年6月~1974年8月)
をリアルタイムで聴いたことがあるのかなぁ。
さらに若い
高橋秀明編集長(1967-2014.4.19)の企画による成果は、
リスナーだった、
1955年1月生まれの
『1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代』
体験者だった
私に四十年前の自分を回想させてくれました。
「サマークリスマス」、
1974年8月25日(林美雄31歳の誕生日)
午後1時半、
代々木公園に集合~TBSスタジオに移動して開催された、
金曜パック第二部のファン(約400人)の集い。
ユーミン(当時はまだ荒井由実)と
石川セリを中心に撮影された不鮮明な写真を見ていると、
参加者の一人だった私は41年前のことを思い出して、
数分、茫然としてしまいました。
「21歳のユーミン[1954年1月19日生まれ]は、
自分の未来をはっきりと見通していた。これまで、
ユーミンの曲が持つ真の価値を見抜いた人間はごく少数であり、
『ひこうき雲』[1973.11]も
『MISSLIM』[1974.10]もまったく売れなかった。
「ユーミンのデビューアルバムである
『ひこうき雲』[1973年11月20日発売]
に収録された曲は、すべて十六歳までに書いたものだ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/ひこうき雲_(荒井由実のアルバム)
https://www.amazon.co.jp/dp/B00005GMFM
セカンドアルバムの
『MISSLIM』[1974年10月5日発売]
に収録された曲の多くもまた、
十代の頃に書いたものだが、
それだけでは足りず、新曲もいくつか付け加えた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/MISSLIM
https://www.amazon.co.jp/dp/B00005GMFN
二枚のアルバムを作り終えて、
曲のストックは尽きてしまった。
ユーミンにはわかっていた。
『ひこうき雲』と
『MISSLIM』の
二枚のアルバムに収録された曲の水準の高さを。
そして、すでに十代の少女ではない自分には
「ベルベット・イースター」や
「雨の街を」
「やさしさに包まれたなら」
のような曲は決して書けないことを。」
p.266
「あの日にかえりたい」
https://www.youtube.com/watch?v=JGZVF5fewlo
https://www.youtube.com/watch?v=CAXxfeccRzI
https://www.youtube.com/watch?v=l6LmGDD5vk8
私はこの二枚以降はほとんど聴いていません。
『ひこうき雲』と『MISSLIM』は素晴らしかったなぁ。
三枚目
『コバルト・アワー』1975.6
https://www.amazon.co.jp/dp/B00005GMFO
https://ja.wikipedia.org/wiki/COBALT_HOUR
https://www.youtube.com/watch?v=TuN73HTW63k
https://ja.wikipedia.org/wiki/松任谷由実
によれば、
ユーミンは1954年1月19日東京都八王子市生まれ。
私は翌年の1955年1月生まれ立川市育ちです。
『小説すばる』
2013年8月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代」
2013年9月6日読了
福岡市総合図書館蔵書
発売されて一カ月たったので
福岡市総合図書館から借りて、
この記事だけ読みました。
『完本1976年のアントニオ猪木』
文春文庫 2009.3
『1985年のクラッシュ・ギャルズ』
文藝春秋 2011.9
『1993年の女子プロレス』
双葉社 2011.6
『日本レスリングの物語』
岩波書店 2012.5
の著者(1960年3月25日生まれ)による、
1970年代前半の深夜放送
「TBS 金曜パック第二部」を担当していた
林美雄とその放送についての
聞き書き・メモワール・ルポルタージュ。
実際にあの番組を聴いていた人間にはとても懐かしい、
大袈裟に言えば感涙に堪えない、そんな文章です。
「林パックが特別な存在になった理由は、
ユーミンこと荒井由実の出現だった。のちの
松任谷由実は、驚くべきことに、
デビューからおよそ一年半もの長きにわたって、
林パック以外のメディアで取り上げられることは
ほとんどなかったのだ。
ただひとり林美雄だけが、
荒井由実のデビューアルバム
『ひこうき雲』を一聴して
「この人は天才です!」と絶賛。
"八王子の歌姫" と命名し、
他の番組が無視する中、
先週は三曲、今週は四曲、来週は録音したての新曲、
と執拗に紹介し続けた。」
p.265
私は、都立北多摩高校一年生の頃、
1970年(頃?)の
『ニューミュージックマガジン』で
「ひこうき雲」が
簡略な楽譜と一緒に紹介されているのを
読んだ記憶がありますけど、
それ以外には無かったなぁ。
『小説すばる』
2013年9月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第2回」
今回は連載題名の
「サマークリスマス」、
1974年8月25日(林美雄31歳の誕生日)午後1時半、
代々木公園に集合~TBSスタジオに移動して開催された、
金曜パック第二部のファン(約400人)の集いが
詳述されています。
ユーミン(当時はまだ荒井由実)と
石川セリを中心に撮影された
不鮮明な写真が2枚掲載されているのを見ていると、
参加者の一人だった私は
39年前のことを思い出して、
数分、茫然としてしまいました。
「月夜のブタは恥ずかしい、ずんぐり影が映ってる。
がに股足で坂を下り、夜空見上げりゃ星ふたつ。ぶっぶー。
苦労多かるローカルニュース。
この番組はブタ型湯たんぽブーブーちゃんでおなじみの
下落合本舗の提供でお送りします。」
「冬にキリストの誕生日を祝うクリスマスがあって、
夏に林美雄の誕生日を祝うクリスマスがないのはおかしいと、
文部省が八月二十五日を夏のクリスマス、
つまりサマークリスマスとして認定するという通達を出しました。」
(1974年8月23日放送)」
p.305
『小説すばる』
2013年10月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第3回」
今回は
1943(昭和18)年8月25日の誕生から、
浅草の精華小学校~蔵前中学校~都立第三商業高校~
早稲田大学第二法学部を卒業して、
TBSに入社したあたり(1967-68)まです。
同期として久米宏が登場します。
「財界の後押しによって誕生した
日本テレビとは異なり、
後続のラジオ東京=TBSは毎日、
朝日、読売の新聞三紙と電通が設立した会社である。
警察官僚出身の正力松太郎が主導する
日本テレビが自民党政権およびアメリカと深く結びつく
反共のメディアであったのに対して、ラジオ東京=TBSは
放送メディアの社会的役割を強く意識していた。
権力とは距離を置き、公正な報道を目指す
リベラルな放送局であった。」
p.270
へぇ~、
そんな時代があったのかと思ってしまいました。
林美雄さんには、
私が明治大学文学部学生の頃(1973-77)、
二三度お目にかかったことがあります。
今月号に掲載されている、
2歳の頃と12歳
(『1億人の昭和史 第6巻』毎日新聞社 1976.6 の表紙!)
の写真を見ながら、
林さん(2002年7月13日に死去)を偲んでいます。
『小説すばる』
2013年11月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第4回」
林美雄(1943.8.25-2002.7.13)がアナウンサーとして入社した
1967年にTBSが放送した
『ハノイ 田英夫の証言』
(「[ベトナム戦争中に]西側諸国で初めて北ベトナム取材を敢行した画期的な番組」p.292)
に対する政府・自民党による攻撃の説明から始まります。
TBSの深夜放送
『パックインミュージック』の放送開始は
1967年8月。
当初はタレントによる番組でしたが聴取率低迷のため、
1969年5月18日午前3時10分、
「タダで使える」p.302
若手男性アナウンサー
桝井論平をパーソナリティとした放送がスタートします。
この「第一回を
林美雄は親しい仲間たちと共にTBS局内で聴いている。
衝撃だった。」
という文章で今回は終ります。
『小説すばる』
2013年12月号
柳澤健
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第5回」
林美雄(1943.8.25-2002.7.13)
今回は結婚(1971?)まで。
「1966年秋、林美雄はひとりの女性に出会う。
23歳の林は早稲田大学第二法学部(夜間)の学生。
アルバイトで …
池袋の喫茶店でディスクジョッキーを務めていた。 …
二つ年上の彼女もまた、当時流行した喫茶店DJのひとり。
…
林美雄と出会った頃の彼女は、
ほとんど毎日映画を観ていた。」
p.452
「1970年4月には、
桝井論平パックが水曜一部に昇格し、
久米宏が
ナチチャコ「野沢那智・白石冬美]パックの後の
金曜第二部に起用された。しかし、
久米パックはわずか5回で終了してしまう。
肺結核のためだ。
…
林美雄は久米宏の代理として
金曜パック二部を担当することになった。」
p.458
「1971年2月22日、
成田空港建設に反対する農民の所有地を収容する
強制代執行が開始された。農民および支援する
新左翼系学生が火炎瓶等で抵抗、
機動隊は催涙弾や放水などで応戦した。
この日、桝井論平はひとりで
デンスケ
(取材用の可搬型オープンリールテープレコーダー)
を担ぎ、取材を行った。 …
取材から一カ月も経たないうちに、
桝井論平は
「パックインミュージック」水曜一部を降ろされた。
…
林美雄が彼女と結婚したのは、
その少し前のことだ。 …
しかし、ふたりの生活は半年も続かなかった。
(つづく)」
p.461
『小説すばる』
2014年1月号
柳澤健
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第6回」
「林美雄の
「パックインミュージック」
[1970年5月放送開始]は、
なかなかうまくいかなかった。…
金曜二部という時間帯である」
p.452
「すでにラジオは斜陽のメディアであり、
午前三時からスタートする二部には、
スポンサーが一切ついていなかった。早い話が、
林美雄の金曜パック二部が面白かろうがつまらなかろうが、
TBSとしてはたいした問題ではなかったのである。
問題は林美雄の心の中だけに存在した。
林美雄にはわかっていた。
自分の番組が面白くないことを。自分は
久米宏や小島一慶のようには決してなれないことを。
…
もしそのままだったなら、後の
林美雄は決してなかったに違いない。だが、
転機は意外なところからやってきた。
結婚生活が破綻したのである。」
p.460
「複雑な思いが胸中に渦巻く1971年の終わり、
林美雄は一本の映画に出会う。
『八月の濡れた砂』[日活 藤田敏八監督]である。
(つづく)」
p.461
連載は一年間の予定だそうですから、
もう半分終わりました。
いよいよこれからが、
私が高校生〜学生の頃聴いていた
「林パック」の時代です。
『小説すばる』
2014年2月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第7回」
「林美雄[1943.8.25-2002.7.13]が
『八月の濡れた砂』[1971年8月25日公開]
https://www.allcinema.net/cinema/143692
(藤田敏八監督[1932-1997])を観たのは、
1971年暮れのことだった。
現在では青春映画の傑作と高く評価されているが、
8月25日の公開当初はまったくの不入り。
日本映画は斜陽時代にあり、前年に日活は大映と配給部門を統合して
「ダイニチ映配」を立ち上げたものの、衰退は食い止められず
提携関係は解消。
『八月の濡れた砂』は「ダイニチ」最後の配給作品として、
ろくな宣伝もないまま封切られた。
林美雄はこの映画を封切館ではなく、名画座で観ている。
妻とふたりで入った池袋の文芸地下の客席は閑散としていた。」
p.466
https://www.youtube.com/watch?v=NNd7BSF51CI
「「いつかは愛も朽ちるもの」
「あの夏の光と影はどこへ行ってしまったのだろう」
そう感じていたのは林美雄自身だった。
幼い頃からあこがれ続けたアナウンサーになった喜びもつかの間、
長年にわたって磨き上げたアナウンサーらしい話し方は、
すでに時代遅れのものになっていた。
…
愛する妻との結婚も破綻していた。
「林さんは[『八月の濡れた砂』の]
主人公の苦しみに自分の状況を重ね合わせた。
『パックインミュージック』がうまくいかないことに悩みつつ、
私とのことで、自分の心の中を見つめていた。
つらい時期だったはずです」
「『八月の濡れた砂』を観た当時の
林美雄は仕事でもプライベートでも追い込まれ、
苛立ちと無力感の渦中にあった。
28歳の林美雄にとって
『八月の濡れた砂』はいわば初めて自分自身を投影できた
青春映画であり、甘やかな石川セリの歌声は、
失われた青春の主題歌だった。
まだレコードは発売されていない。
当然だが石川セリも全く無名である。
キャニオンレコードからシングルレコードが発売されるのは
1972年3月5日のことだ。
林美雄は日活のスタッフに頼んで映画
『八月の濡れた砂』の音源から主題歌を
テープにダビングしてもらい、
「パックインミュージック」の冒頭で繰返しかけ続けた。
石川セリの歌声の素晴らしさ、
主題歌の素晴らしさ、
映画の素晴らしさを繰返し語ったことは言うまでもない。…
かけ続けた結果、
池袋の文芸地下は多くの若者で溢れかえった。」
p.468
「同期の久米宏は、
『八月の濡れた砂』以降の
林美雄は自分のNHKアナウンサー的な話し方を思い悩むことをやめた、
と言う。
「話し方なんてどうでもいい、要は内容だ。
どんな映画を紹介して、どんな音楽をかけるか、
誰をゲストに呼んでどんなテーマで話をするかが大切だ
と考えるようになった。
『八月の濡れた砂』に出会って、彼は救われたんです。
林はそこから一気に文化人になっていった。
具体的にいえば、TBSのアナウンス室に
顔を出さなくなったんです(笑)。」
p.473
「1972年7月には情報誌
『ぴあ』が創刊されている。…
マニアックな若者たちは
林美雄という稀代の名ガイドに導かれて、
『ぴあ』を片手に、東京中を歩き回って
面白い映画を自分で発見していく喜びに夢中になった。
池袋の東口には文芸坐と文芸地下があった。
文芸坐は洋画、
文芸地下は邦画専門である。
銀座には
並木座、
飯田橋には
ギンレイホールと佳作座、
新宿には東映の任侠映画の聖地、
新宿昭和館と雑多な映画が掛かる
昭和館地下があった。」
p.474
「… その頃、29歳になっていた林美雄は、
下落合のマンションを出て、八歳年下の女性と
足立区綾瀬で同棲を始めていた。
若く美しい女性だった。(つづく)」
p.476
以上、えんえんと書き写してしまいました。
以下、重箱の隅をつつくようなことも書いておきます。
「土曜日に行われる[池袋文芸坐]オールナイトの
座席指定の前売りチケットは火曜日に売り出される。
マニアには自分の好みの席があるから、
火曜日には必ず池袋に出かけた。」
p.472
私が文芸坐オールナイトに通っていた
1970年代前半から中頃(1974-77)では、
「座席指定」なんてありませんでした。
全席早い者勝ちなので列を作りました。
「初期の林パックが主に紹介したのは、
日活ニューアクションと呼ばれる作品群である。たとえば
澤田幸弘監督の『斬り込み』[1970.3]
『反逆のメロディー』[1970.7]、
藤田敏八監督の『新宿アウトロー ぶっ飛ばせ』[1970.10]
『野良猫ロック 暴走集団’71』[1971.1]、
長谷部安春監督の
『みな殺しの拳銃』[1967.9]
『野良猫ロック セックス・ハンター』[1970.9]等々。」
p.472
私より五歳若い、
1960年生まれの著者、
柳澤健さんは列記している映画を、
たぶん、全部は、
観ていないのかもしれません。
長谷部安春監督(1932-2009)は、
「日活ニューアクション」以前からの監督です。
『みな殺しの拳銃』1967.9 が
「日活ニューアクション」だなんて … 。
渡哲也の
『紅の流れ星』1967.10
と同時期の作品なんだから …。
まあ、日活アクション末期の、
先駆的な作品だったのかもしれないけれど。
『小説すばる』
2014年3月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第8回」
1972年7月7日、
林美雄[1943.8.25-2002.7.13]は
都立第三商業高校放送部の後輩、八歳年下の
二見文子と足立区綾瀬で同棲を始めます。
その前、3月頃、
「文子はこう言った。
「奥さんだった人に会わせてほしい」
愛する女性の言葉に従うほかなく、
銀座の千疋屋に元妻を連れてきた。
…
彼女[元妻]が林美雄に
とても大きな影響を与えていることもすぐにわかった。
…
[林パックの]
「苦労多かるローカルニュース」の前に必ずつけられる
架空の番組提供MCも、彼女の手になるものだ。
月夜のぶたは恥ずかしい。
ずんぐり影が映ってる。
がに股足で坂を下り
夜空見上げりゃ、あっ、星ふたつ。
ぶっぶー。
苦労多かるローカルニュース。
この番組は、がに股印ぶた型湯たんぽ
ブーブーちゃんでおなじみの
下落合本舗の提供でお送りいたします――。」
p.304
https://www.youtube.com/watch?v=S77R2Hflg88
https://www.youtube.com/watch?v=umI3LXeffNE
https://www.youtube.com/watch?v=zysJ-gVb4U8
「日本映画に色濃く染められた林パックに突然、
彗星のごとく登場したのが、
ユーミンこと荒井由実だった。」
p.310
「2013年に公開された
宮崎駿監督の
『風立ちぬ』の主題歌となったタイトルチューンを含め、
林パックのリスナーたちは
荒井由実のデビューアルバム
『ひこうき雲』に収録された
すべての曲を熱烈に愛した。
しかし、彼らが最も深く愛した一曲を挙げるとすれば、
センチメンタルでロマンチックな
「雨の街を」になるだろう。
https://www.youtube.com/watch?v=CAXxfeccRzI
夜明けの雨はミルク色
静かな街に
ささやきながら 降りてくる
妖精たちよ
誰かやさしくわたしの
肩を抱いてくれたら
どこまでも遠いところへ
歩いてゆけそう
朝までラジオを聴いている孤独な若者たちは、
愛する人の肩を抱いて、
どこまでも遠いところへ歩いていきたかったのだ。
(つづく)」
p.312
私も「雨の街を」が大好きで聴いていましたが、
一番好きなのは
「曇り空」でした。
今でも、時々、聴いています。
https://youtu.be/JxdjGXpb99Q?t=257
『小説すばる』
2014年4月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第9回」
「林パックのリスナー
沼部信一は、初めて
[池袋]文芸坐のオールナイトで
宍戸錠特集を観た時の様子を次のように書いている。
「日活マークに大歓声。
題名が映ると盛大な拍手。
出演者のタイトルロールにもいちいち拍手が巻き起こる。
客の多くが上映作品をすでに何度となく観て、
あらゆる場面を隅々まで熟知している。
エースの錠が格好良い独白や決め台詞を発すると、
間髪を入れず「よしッ」という掛け声がかかる。
印象的な脇役が登場するや、すかさず拍手喝采だ。」
(沼部信一のブログ
「私たちは20世紀に生まれた」)」
p.293
私も、この頃の
池袋文芸坐や新宿ロマン劇場の
土曜日夜のオールナイトに通っていましたが、
この通りの雰囲気でした。
楽しかったなぁ。
「醒めた道化師(宍戸錠)が、
小林旭という無意識過剰のスターと
ぶつかるとき、1+1=3 といった
おかしさが生まれた。
小林旭「ちぇっ、キザな野郎だな」
宍戸錠「むしろ、文学的といっていただきたい」」
小林信彦
『日本の喜劇人』
新潮文庫(1982.11)
第六章
「醒めた道化師の世界 日活活劇の周辺」
p.150
単行本
晶文社 1972.5
「1974年夏 … TBSは「パックインミュージック」二部の打ち切りを決定していた。後番組はタクシーおよび長距離トラック運転手向けの「歌うヘッドライト」。これまで買い手のつかなかった午前三時から五時の枠を一週間まるごと買うという、いすず自動車の申し出に、TBSは喜んで応じた。
新番組「歌うヘッドライト」の誕生はTBSにとっては慶事以外の何物でもなかったが、林美雄にとっては悪夢だった。心血を注いで作り上げた金曜パック第二部が消滅する運命にあったからだ。」p.297
「[1974年]8月29日深夜(30日早朝)午前3時[最終回]、…
石川セリの「遠い海の記憶(つぶやき岩の記憶)」、
原田芳雄の「プカプカ」… に続いて紹介されたのは、
荒井由実の「旅立つ秋」だ。
後のスーパースターが林美雄に捧げる曲を作った、というのは、林美雄を語る際に真っ先に語られるエピソードだろう。
「夜明け前に見る夢
本当になるという
どんな悲しい夢でも
信じはしないけれど
明日[あした]霜がおりていたなら
それは凍った月の涙
秋は木立をぬけて
今夜 遠く旅立つ」」p.301
『小説すばる』
2014年5月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第10回」
今回は、
1975年1月19日に
新宿・厚生年金会館で開催された
『歌う銀幕スター夢の狂宴』
(出演 菅原文太、渡哲也 他)
の企画と準備経過についてです。
主催者は
「映画スターファン倶楽部」
(代表はもちろん林美雄で、全六人)。
「「長い間役者をやって来たが、
○○より下に名前が載せられたのは初めてだ ……
ポスターの刷り直しをしない限り、
出演は辞退させてもらう。」
宍戸錠が
「ポスターの並びが気に入らない」と抗議してきたのである。
日活の黄金時代の立役者のひとりである
宍戸錠にとって、
日活が落ちぶれ、多くのスターが去った後に
ようやく主役を張った
原田芳雄や藤竜也の下に
自分の名前が置かれたことが耐え難いことだった。
……
宍戸錠はただ正直だっただけだ。
配慮が足りなかったのは林美雄らの方なのだ。
「自分が言い出したことだから、
自分の方で何とかする。
ポスター刷り直しのお金は僕の貯金から出すよ」
林美雄が印刷所に支払った刷り直しの代金は、
給料の半月分に相当したはずだ」
p.323
『小説すばる』
2014年6月号
柳澤健
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第11回」『小説すばる』2014年6月号
今回は、
1975年1月19日、
新宿の
東京厚生年金会館大ホールに
二千四百人以上の観客が集まった、
『歌う銀幕スター夢の狂宴』
です。
主催は林美雄と、
「シナリオライターの高田純[1947-2011]、
文化放送アナウンサーのいぬいみずえ、
『キネマ旬報』編集部員の植草信和、
ラジオCM制作会社勤務の横田栄三、
『週刊朝日』記者の邨野継雄(むらのつぐお)」p.259
の五人からなる
「映画スターファン倶楽部」。
「林美雄は映像のないラジオの深夜番組の中で、
ヒットとは無縁でありつつも
自分の心に深く突き刺さった曲を紹介し続けた。
石川セリの
「八月の濡れた砂」、
緑魔子の
「やさしいにっぽん人」、
安田南[1943-2009?]
「赤い鳥逃げた?」、
原田芳雄
「愛情砂漠」、
藤竜也
「花一輪」、
佐藤蛾次郎
「もずが枯木で」、
吉田日出子
「満鉄小唄」
等々。」
p.258
「午後6時30分、客席の明かりが落とされると、
小野満とスイングビーバーズが演奏する
華やかな音楽が鳴り響いた。
林美雄の張りのある美声がそこに重なる。
「歌う銀幕スター 夢の狂宴!
昨日の夕陽はどんなに赤くても
今日の影を映さない。
今日の影はどんなに長くとも
明日には届かない。
だが、それでも
みんな忘れて日が暮れれば、また明日が来る。
山のかなたの真っ赤な夕焼けに向かって、
しのつくような雨の川べりにそって、
華麗に舞う花吹雪に身を埋めて、
後ろ姿で去って行った
スクリーンのヒーロー、ヒロイン達が、
今、私達の方に向かって立っている。
歌う銀幕スター 夢の狂宴!」」
p.264
『小説すばる』
2014年7月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第12回」
今回は、
林美雄についての文章はごくわずかで、
1975年1月19日、
新宿の東京厚生年金会館大ホールに
二千四百人以上の観客を集めて開催された
『歌う銀幕スター夢の狂宴』に裏方として協力した
「パック 林美雄をやめさせるな! 聴取者連合」
通称パ聴連の若者たちの
『銀幕』後の生活が描かれています。
若者の一人が中心になってファンクラブが結成された、
三枚目のアルバム
『COBALT HOUR』
(「ルージュの伝言」がシングルヒット)
発表目前の
ユーミン(荒井由実)についての記述が
2ページもあって面白かったです。
「1975年1月19日に行われた
「歌う銀幕スター夢の狂宴」は、
「パックインミュージック」を失った
林美雄にとって、青春の総決算だった。
大手広告代理店の電通も博報堂も使わず、
五人の友人たちと企画した手作りのイベントは、
しかし驚くべきことに
渡哲也、菅原文太、宍戸錠、原田芳雄、藤竜也、中川梨絵、
桃井かおり、佐藤蛾次郎、高橋明、深作欣二、鈴木清順
といった豪華メンバーを集めた。
多くの映画人が手弁当での出演を快諾したことは、
林美雄の「パックインミュージック」が
日本映画でどれほど高く
評価されていたかを雄弁に物語っている。
日本映画が斜陽を極める中、
新宿・東京厚生年金会館大ホールの
二千四百余席は日本全国から集まった
若い映画ファンで埋め尽され、
会場周辺にはダフ屋まで出る賑わいを見せた。」
p.410
https://www.youtube.com/watch?v=kTL8slBGODc
『小説すばる』
2014年8月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
13回」
今回も、林美雄についての文章は少しで、
「1975年6月11日午前1時、
林美雄の水曜パックがスタートした。」
p.286
というような記述は最初の3ページのみ。
四年間(1970-74)続いた
「金曜パック」のリスナー達のその後と、
三枚目のLP 『COBALT HOUR』 を発表した
ユーミン(荒井由実)について描写されています。
「1975年11月にはユーミンが作詞作曲を手がけた
バンバンの「『いちご白書』をもう一度」
がヒットチャートのトップに立ち、
以後六週間にわたって首位を独走した。
ユーミンは初めて大きな成功を手にしたのだ。
「『いちご白書』 は我々の世代にとって、
ほろ苦くも思いで深いアメリカン・ニューシネマの傑作だったし、
バフィ・セントメリーの歌う主題歌
『サークル・ゲーム』(ジョニ・ミッチェル作詞作曲)は、
誰もが口ずさんだ名曲でした。
だからこそユーミンは目ざとくそこに着目したのでしょうが、
その姿勢がいかにもあざとい。
本人は 『時代の気分を歌にした』 と言うかもしれませんが、
学生運動に伴う挫折や抵抗を安易に歌にしてはほしくない、
あの無垢で痛切な映画をネタにしてほしくない、
という反発もありました。
詞も旋律も歯が浮くほど凡庸で、
常日頃からユーミンが唾棄していた
"四畳半フォーク" の同類としか思えなかった。
(沼部信一のブログ
「私たちは20世紀に生まれた」
p.289
「沼部が持っているユーミンのアルバムは、
『ひこうき雲』と
『MISSLIM』の二枚だけだ。」
p.289
私もこの二枚しか持ってませんでした。
『ひこうき雲』と『MISSLIM』が好きだったので。
『小説すばる』
2014年9月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第14回」
今回は1975-76年です。
この時期の林美雄の深夜放送に登場したのは、
タモリ[1975.10.22]
(当時はまったく無名。「四カ国語麻雀を披露した。」
p.270)、
山崎(やまさき)ハコ[1975.11.12]、
荒井由実・石川セリ・吉田拓郎・井上陽水[1975.11.26]、他。
山崎ハコが出演して
ギターを弾きながら歌った日の放送を
私はラジカセに録音して
何度も何度も聴きました。
彼女のLPも買ったなぁ。
「気分を変えて」~
山崎ハコ ファーストライブ』1977
https://youtu.be/VEgSE4Isbp4?t=1699
「林美雄の水曜パック第一回が放送されたのは、
1975年6月11日のことだった。
放送時間は午前一時からの二時間。
かって午前三時という遅い時間から放送されていた
林パックは、深夜放送のメジャーな時間帯に
昇格したことになる。」
p.268
「金曜二部時代の林パックには、
林美雄の本音だけが存在した。だからこそ、
林美雄の言葉は若者たちに強く響いた。
しかし、マイナーだった
ユーミンがスーパースターになったことで、
林美雄は "目利き" としての能力に自信を持ち、
「これから売れるであろう音楽」を
誰よりも早く紹介するトレンドセッターを目指した。
水曜パックは情報番組になり、
本音の放送ではなくなったのである。」
p.275
『小説すばる』
2014年10月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
第15回」
今回は1970年代後半、
1980年9月30日で
「パックインミュージック」を降板するまでです。
『みんな不良少年だった
ディープ・インタヴュー』
白川書院 1977.1 の著者、
高平哲郎さん(1947.1.3-
私の恩師・小野二郎 1929-82 の義弟)
も登場します。
学生の頃(1973-77)、
池袋文芸坐で販売されていた雑誌
『ムービー・マガジン』
に連載されていた彼の
川谷拓三、室田秀雄他へのインタビューを
懐かしく思い出しました。
http://www.amazon.co.jp/dp/B000J8VE4Y
「午前一時という深夜放送のメジャーな時間帯に昇格した
林美雄の水曜パックは、
金曜二部[午前三時開始]時代のような
先鋭的な番組ではすでになかった。しかし、様々な制約の中を、
林美雄は最善を尽くした。最も力を入れたのはゲストである。
五木寛之、伊丹十三、大島渚、小沢昭一、アグネス・チャン、沢田研二、ピラニア軍団、郷ひろみ、松崎しげる、西田敏行、等々、
林美雄はこれだと思った人間を次々にスタジオに招いた。
「ゲストはノーギャラですが、
原田芳雄さんは四回、
五木寛之さんは三回も出てもらっています。」
(林美雄『女性セブン』1977年9月29日号)。」
p.421
「1975年以降の
林美雄は、サブカルチャーの専門家、水先案内人と見なされ、
ひとつの権威になっていく。
林美雄の権威を保証したのは、
ついに才能を認められて爆発的な人気を獲得した
ユーミンであり、
『歌う銀幕スター夢の狂宴』に出演した
原田芳雄、藤竜也、桃井かおり、
等の映画俳優たちであり、
突然パックにやってきた吉田拓郎と井上陽水であり、
雑誌『ビックリハウス』である。」
p.423
『小説すばる』
2014年11月号
柳澤健(1960.3.25- )
「1974年のサマークリスマス
林美雄とパックインミュージックの時代
最終回[第16回]」
今回は
1980年9月30日で
「パックインミュージック」を降板して以降です。
1978年春に
明治大学文学部卒業・聖心女子大学図書館就職・結婚した
私は深夜放送を聴かなくなっていましたから、
1982年7月に
「パックインミュージック」の放送が終了したこと他、
知らないことばかりの内容でした。
「1998年1月、健康診断で胃がんが見つかった。
手術をして胃の四分の三を切除した。
2001年6月、胃がんの再発が発見された。
「余命二ヶ月、三ヶ月という可能性もゼロではない」
と言われた。
2002年初頭、三度目の手術を行った。
三月には初孫が生まれ、祖父となった
林美雄は、孫をだっこして
一緒にお風呂に入ることができた。
…
2002年7月13日早朝、
林美雄は肝不全で亡くなった。
享年五十八。
…
2002年8月25日、
東京港区の新高輪プリンスホテルで
「サマークリスマス
林美雄フォーエバー」
というお別れの会が行われた。
…
石川セリは「八月の濡れた砂」を、
山崎ハコは「サヨナラの鐘」を、
原田芳雄は「リンゴ追分」を。
最後に登場したのはユーミンだった。
短い挨拶の後、
ユーミンは
「旅立つ秋」を歌った。
言うまでもなく、
林パック(金曜二部)
最終回の
1974年8月30日、
番組を終える林に、
はなむけとして贈った曲である。」
p.249-251
1974 荒井由実(20) クリスマス・コンサート
https://youtu.be/eIHo0Hcj25o?t=1612
読書メーター
柳澤健の本棚
登録冊数58冊
刊行年順
https://bookmeter.com/users/32140/bookcases/11091212
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https://note.com/fe1955/n/nb844fde00ae3
https://note.com/fe1955/n/nc712b1249535
https://note.com/fe1955/n/nc712b1249535
柳澤健(1960.3.25- )
『2016年の週刊文春』
光文社 2020年12月刊
528ページ
追悼・勝谷誠彦[1960.12.6-2018.11.18]
“恐るべき新人”だった文春時代
57歳の早すぎる死
文春オンライン 2018/12/30
https://note.com/fe1955/n/nef78a2089516
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