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苦味を楽しむ|狩野琳太朗

プロフィール

狩野琳太朗 #27
社会学部2年
群馬県立沼田高校出身

向上心に溢れ、思い切りのいいプレーが持ち味のディフェンダー。
2年からの入部になるも、シーズン中盤からはAチームに上がって徐々にできることを増やし、リーグ戦への出場も果たした。
そんな彼がどのような思いを持って日々の練習に向かい、部活を楽しんでいるのかについて書き記してもらった。

 
一橋大学ア式蹴球部2年の狩野琳太朗です。
 
先月21歳を迎えた私ですが、ようやくビールの美味しさが分かるようになってきました。

初めて飲んだビールはとにかく苦かった。苦い。苦すぎる。そんなビールの味を楽しむことができるようになり、晴れて大人の仲間入りを果たしたと悦に浸っていた矢先、こんなタイトルの記事を目にしました。

『苦味をおいしく感じるのは老化の証』

21にして早くも老いを突き付けられていますが、シーズンが終わったら、老いの産物?であるビールの旨さを存分に味わいたいと思います。
 
今回は、そんな苦味と結びつけながら自らのこれまでとこれからについて綴りました。

別段、何を成し遂げたというわけでもない私の拙文にお時間を割いていただくのは恐縮ですが、ああだこうだと言いながら最後まで読んでいただけたら幸いです。
 
 

甘い世界

 
私は苦いものを口にせずに生きてきた。
 
群馬の片田舎で生まれた私は、高校卒業までの18年間を地元で過ごした。

高校進学の際には、往復3時間ほどかけて中心部の学校へ通うという選択肢もあった。

往復3時間などと言うとやや長い気もするが、私の地元にはいわゆる進学校なるものが存在せず、ある程度の学力がある者は、通学に多少の時間はかかろうとも市外の高校へと進むのが大方である。

それでも私は、地元の高校へ進むことを選んだ。気心の知れた仲間が集まる居心地の良い空間から出るという決心ができなかったからである。

そういうわけで、高校卒業にいたるまでとうとう私は地元を離れることがなかった。
 
さて、学校教育の場において「文武両道」といった類の標語が盛んに掲げられることに象徴されるように、学生生活においては勉強と運動という二つの柱が存在する。

それ故に、実に多様な面によって構成されている人格のうち、学力と運動能力の二面が肥大化して格別の価値を与えられる。

勉強と運動をそこそこにこなした私は、こうした学校教育の特色に地元の狭小なコミュニティも相まって、それだけでなんでもできるかのように扱われた。
 
これが、私が苦いものを口にすることなく生きてきた理由である。

自分のことを知り尽くした友人に囲まれ、周囲からもてはやされる甘い環境の下では、どうやっても苦渋を味わう機会などなかったのである。
 


苦味を知る

 
私は、この春にア式へ入部した。

高三の夏前に部活を引退し一年の浪人生活を経て大学に入学した私にとって、二年になってからの入部は、三年に迫るブランクがあることを意味していたが、ア式へ入部することはさして大きな決断ではなかった。

また本気でサッカーをしたいと思ったというだけのことだ。
 
ア式には明確なチームのコンセプトが存在し、プレーするうえではその十全な理解が求められる。

よって、日々のトレーニングは、軸となるチームのコンセプトを様々な局面に敷衍させたものであり、理解や思考が求められるものとなる。

身体動作は、理解や思考のアウトプットとして存在するのであり、選手の動きはその人の理解のレベルを示すことになる。
 
これまでのサッカー人生においては、チームにおけるコンセプトといったものが存在せず、場当たりで感覚に頼ったプレーを続けてきた。

練習も特段、理解力や思考力を要さない単純な身体動作の反復であった。
 
身体を用いる感覚のスポーツであったサッカーは、頭を用いる論理のスポーツへと急変した。
 
私は苦労した。
理解が追い付かず、ただピッチに立っているだけで練習や試合に入り込めない。
サッカーをする場所で、サッカーが出来ていない自分。
 
私はア式に入って苦しみの味を知った。


 

苦味を楽しむ

 
苦いものは咄嗟に吐き出したくなるものだ。あるいは、咀嚼もほどほどにして飲み込みたくなるものだ。

苦しい思いや苦い経験と向き合うのにはそれなりの痛みが伴うし、時には、すべて忘れてしまいたくもなる。
 
ただ、得てして苦いものには栄養がある。
 
居心地の良い環境に甘んじてきた私にとって、苦汁を舐めてばかりのア式での毎日は非常に充実している。
 
今日もグラウンドで不用意なプレーをして指摘を受けた。
家に帰って練習や試合の動画を見返せば、初歩的な動きさえ徹底がなされていない自分の姿がある。
 
情けない自分の姿を突き付けられるのはなかなかに苦しい。
 
しかし、苦しいだけではない。苦しくて、楽しい。
 
苦しみの源が自らの及ばなさである以上、苦しみを味わうことは前進の足掛かりでしかない。

これまで苦しみを味わってこなかった私は、前進する機会をみすみす逃してきた。

甘い世界で育った私だからこそ、及ばない自分を及ばない自分としてありのままのかたちで突き付けてくれる環境は何にも代えがたいものであるということを理解している。
 
サッカーには合格がない。合格最低点さえ上回ればそれでよい受験などとは根本的に違う。

ほどほどの取り組みで得られるものなどないし、たとえ真剣に取り組んだとしても終わりが見えることなどない。
 
私は決してプロサッカー選手にはなれない。
しかし、サッカーをプレーする者として真剣にサッカーに向き合う以上、これからのア式での日々もこれまでと同様、苦しみに溢れたものになるだろう。

あまりの苦さに吐き出してしまいたくなることもあるかもしれない。
 
ただ、せっかく口にできた苦いものだ。
とことん咀嚼してから飲み込み、十分に消化、吸収して成長の糧としたい。
 
苦しみを味わうことのできる喜びを噛みしめながら、苦味を楽しみながら、前進し続けたい。

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