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「息もできない」 原題똥파리/Breathless

たまにスンドゥブチゲとトッポギが食べたくなる。新大久保とかで、韓国語しか聞こえない場所で。久々に見返した「息もできない」の感想、覚書。

*ネタバレしてます

母と妹の死の原因を作った父親に対して強い憎しみを持っている借金取りのサンフン(ヤン・イクチュン)は、ある日、女子高生のヨニ(キム・コッピ)と知り合う。サンフンは、強権的な父親や暴力的な弟との関係に悩むヨニに惹かれ、それぞれの境遇から逃避するかのように何度も一緒に過ごすうちに、互いの心に変化が訪れる・・・

借金取りでどチンピラ。仕事は恫喝と暴力の繰り返し。タンを吐いたら女子高生のネクタイにストライク!ってあるわけねー出会いからスタートするサンフンとヨニ。女子供に手をあげるのどうなん…て思ったけど、女子高生のヨニも負けず劣らず口が悪い。サンフンのヤンキー座りもさまになってる。

事務所や自宅、閉塞した空間ではガツガツ食べる場面が似合う。金返せ!と乗り込んだ先でジャージャー麺食べるってなんだそれ。逆にレストランや開けた場所では不思議とゆっくり食事する。韓国映画では食事の対比はとても多い

前半は、ふたりが付き合うでもなく、傷つけるでもなく淡々と進むんだが、90分越えたあたりから心をわしづかみされる。具体的にいうとサンフンの親父が自殺をはかって、とりみだすサンフン。そのあとヨニを夜の漢江(ハンガン)に呼び出して、膝枕してもらう場面。この一連の流れで私は泣いてしまった。

韓国って嘆き方が尋常じゃない。葬式に泣き女ってのは昔の話だと思うけれど、それでもサンフンの遺体と対面したときの上司、義姉、親父、そして肩を震わせるヨニ。物語の最後にレストランひらいた上司のおごりで、皆仲良くご飯たべてる、たぶんサンフンが求めていただろう場面に、彼の死を差し込んでくる絶望。

邦画より韓国映画のほうに共感することが多いのはなぜかな?って考えていた。韓国映画って、親父に雰囲気似てるんですよ。煙草ふかしたり、メンチきったり(古い)、周囲に噛みついてたりっていうあたり。うちは幸い暴力も貧困もなかったけれど、ゆがんだ母親と父親と、どこか歯車のずれた家族像が、とても近い。カミヤマさんが「三角締めでつかまえて」の記事でも書いてるように、どこか自分のことを描かれているようだと感じる人は、「息もできない」に共感してしまうのだろう。

オープニングでサンフンは男に暴力を振るわれている女性を助けるが、彼女にもビンタする。「おまえ、殴られたままでいいのか」と。母親と妹を誰よりも助けたかったけど、それを過去の自分に伝えるすべがない。監督はサンフンは「獣の言葉で話す」と言っていた。けれどヨニとは同じ言葉で語り合いができる関係になっていたんだと思う。何度か差し込まれる、兄妹のようなふたりが町をあてどなく徘徊する場面でそう思った。

この話は救いがあまりない。ヨニの半分狂った父親は(残念ながら)生きている。ヨニの弟は、いつか屋台で母を殺したサンフンと同じ道をたどっている。ヨニはまっすぐ生きていけと願う。ひとついえるのは、不幸の輪っかが嵌っていたとしても、外す手段は自分次第ということだ。


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