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犬とおじさん

アイシングのかかったお菓子を見かけると素通りできないのと同じで、理由はよくわからないけれど、犬とおじさんが主役の小説を見つけたら、読まずにはいられない。

『ある犬の飼い主の一日』(サンダー・コラールト)もそうなのだった。ヘンクは読書家の中年男。老犬スフルクと暮らしている。そしてある日、恋におちる。

それだけなんだけれど、それはアイシングがかかったお菓子より長いこと楽しめる。哀しくない。感じとしては、いとおしい感じ。
あの犬の温かい、やさしい匂いみたいに。

4月に『月の本棚 under the new moon』を上梓して、このふた月ほど、トークイベントをしていたので、読書について考えることが多かった。そんなときに読んだからか、ストーリーとは別に、興味をそそられたところがあった。それはヘンクの本の読みかただった。

ヘンクはミア(恋におちた相手)を自分の家に招き入れたとき、本棚を見せる(そのときミアはまだ知らないが、ヘンクは何千冊もの本を所有している)。それらの本に彼は書き込みをしている。

文章の美しさとか新たな観点とか唸るようなジョークなんかに感動したとき、括弧や線、感嘆符やその他のシンボルを<影のテキスト>として残すんだ。それらの形跡のすべてが、ぼくが生きてきたなかでどんな人間だったかの報告を成しているんだよ。

『ある犬の飼い主の一日』

読んでいる本を見れば、その人がどんな人か少し明らかになるが、書き込みを読んだら、さらにもう少しわかってくるだろう。

書き込みはその人と著者との対話だ。わたしは昔、そういう読書の仕方に憧れて、本に線を引っぱったり、何か書き込んだことが一度だけある。でも、本というハードが好きすぎて、自分の字を書き込むことに罪悪感が生まれることに気づき、その一度きりにとどまった。
もしも自分が好きな人や興味を持っている人が何かを書き込んだ本があるのなら、是非読んでみたいと思うだろう。

ヘンクは、自分のアイデンティティが本に滲み出ているのと同時に、本が自分にはっきりした輪郭を与えている、と感じている。本と相思相愛の関係にあるということか。おもしろい。そして少しこわい。

人は変わり、成長したり老成したり老化したりするなかで、同じ本を読んでも、感じかたが変わってくる。だから書き込みは書いた人の、書いた当時の記録になるのだ。

もう一つ、個人的に(読書はとても個人的な行いだ)、あっ、と思ったのはミアがパティ・スミスに似ているというくだりだった。オランダの知らない作家の本を読んでいたらそこに、知人を見つけたような感じ。

先月、先々月の読書についてのトークイベントで、わたしはパティ・スミスの話をした。パティ・スミスを知らなかったこと。知らないで『Mトレイン』を読んでいいなぁと思ったこと。パティ・スミスとわたしの共通点。頭にふと浮かんだイメージの答えが、自分の本棚にあると思って、すぐに捜しはじめること。他の本が誘惑してくるけれど、それを振り切って捜し出すこと。それがゼーバルトだったりすること。そうした自分の日常とのシンクロ、読書の連鎖。

話がまとまらなくなってしまったけれど……

読書には傾向がある。
本だけでなくて読みかたも、出遭いかたも。
わたしは犬とおじさんの出てくる話を読む傾向にある。
途中で別のことを思い出して、別の本を紐解いたりすることがある。
本とは駅前の書店か、自分の住む町または隣町の図書館で出遭う。
読んだ本のなかで見つけた何かとの連鎖反応のように、次の本を読むこともある。


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