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持ち主不在のきものの履歴と喪服のこと

きものを日常的に着始めたきっかけは、実家に誰も着ないきものがあったからだった。特別たくさんあったわけでも、すごくいいものがあったわけでもない。明治大正昭和の時代にきものを着ていた女性たち(二人の祖母と母と母の姉)のきものの一部が箪笥に残っていた。その実家も箪笥もいまはなく、わたしは自分の小さな場所へそれらを持ってきて、人に譲ったり、直してもらったり、そのまま着たりしている。

着物のすごいところは、きちんと仕舞っであれば、半世紀を経ても普通に着られるということだ。
0歳のわたしを抱いている祖母の写真があった。そのとき祖母の着ていた紬を、裏地だけ新しく替えて50代のわたしが着倒した。
それなりに経時劣化していても、ちょっと手を加えれば新しく生まれ変わる。
それは、すごいことだと思う。

そんなふうに写真が残っていたら、誰のもので、どんなときに着ていたかがわかるけれど、想像するしかないものもある。

藍に蚊絣の紬が出てきた。出てきたなんていうのはおかしいが、不思議なもので、そこにずっとあったはずなのにいま初めて見たような気持ちで眺めた。
纏ってみると、裄は短めなものの、ほかはぴたりと合う。「いま、着なさい」ということなのだ。伯母の笑顔を思い出す。大好きだった。

とても好みな羽織も出てきた。単衣で薄く、軽やかで肌触りがとろんとしている。気候的に、いまの時期に着るのにちょうどよさそうだ。
昭和半ばの丈の短い羽織ではなく長羽織なので、大正から昭和初期のものと推定される。羽裏が華やかでロマンチック。でも残念なことに両方とも袖口が擦り切れている。袖が擦り切れるだなんて、どれだけ着たのか。

いつも悉皆を頼む人に見てもらうと、大島紬だという。けれど生地がだいぶ弱っていて、直してもすぐまた切れてしまうだろうということだった。大島ならシャキッとしていそうだが、とろんとしていたのは、たくさん着てくたびれたからだろう。

それから先が、なんだかよかった。

その人の推察では、たぶんこの羽織は最初はきものとして仕立てられて、長いこと着てから羽織に仕立て直したのかもしれないということだった。
そして擦り切れるほど着たのだ。
母の母のだ、となんとなく思った。会ったことのない、いまのわたしより若くして亡くなった、明治生まれの細面の祖母のことを想う。

幸田文だったか、きものが何回も転生して最後には布団や座布団、はたきになって命をまっとうするというようなことが書かれているのを、読んだことがある。そんな被服をほかに知らない。
そこまでできたら蚕たちも報われるというものだ。

さて、この羽織、外に着ていくのは諦めたけれども、美しいので家で密かに着てしまおうかと考えている。
それは外国人みたいに、デニムの上でもなんでも自由に羽織ってしまおう。そんなふうに考える。

羽織に感情があったら、よろこんでいる。
それがわかる。
バックグラウンドを真剣に読みとろうとするならば、きものは饒舌に語ってくれる。

織や染め、仕立てやそこにかける想い、時間や手間を考えていくと、なかなか簡単には捨てられない。

捨てられない人たちはわたしの周りに結構いて、わたしが断らないと知っていて、譲ってくださる。
結果として、小さな居住空間に対して、わたしは持ちすぎている。そろそろ整理するときだ。

と考えていたら、捨てられないでいた喪服のことが頭に浮かんだ。もしもいま、この喪服を着るほど自分にとって身近な人が亡くなったとして、そのときこの世で最も働かなくてはならないのは、喪服を着ているこの自分だろう。そのとき髪は、持ちものは、履物は、と自分に構う暇などない。とんでもないことだった。ましてや自分のものではない古着で。

喪服は2セットあった。なめらかで厳かな雰囲気の生地の羽二重が、処分しがたい感じだったが、着ないのに持っていても仕方がない。喪服は染め替えたりリメイクしたりもできない。残念だけれど務めを終えたと思うしかない。ごめんなさい。
そのとき、静かに伝わってきたのは、仕立てるときのときめきや楽しい想い出ではなく、「そういうものだから」と備えなければならなかった、昔の人の礼儀や慣習の感覚だった。

しばらく、きものとの対話が続きそうだ。








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