素直になってもいいかしらの話。

いつからだろう。
特定の誰かを『推し』というのが怖くなったのは。
この思いはきっと一過性なんじゃないかって、恐れてて。
だから、責任を持って『推し』なんて誰にも言えない。
そもそも、芸能人の誰かを好きだと言うのに責任なんていらないような気もするのだけど。


そう思えてしまうくらいに、推し活をしてる人達というのはとてつもなく熱く情熱が燃えたぎっているように見える。
まるで自分の人生を相手に注いでいるようで。
一途に恋しているようで。
その姿を見ていると、私は誰かに『推し』とか軽々しく言っちゃいけないような気がしてくるのだ。


これまでの投稿では、好意的な思いがある芸能人を便宜上『推し』という言葉で表現してきたが、本音を言えばとてもそう言えるほどの情熱は私にはない。
先日のマツクランジャタイだってそうだ。
偶然隣の席にいたランジャタイのファンであろう2人組の話が聞こえてしまったのだが、彼女たちは東京公演以外の大阪と名古屋にも行ってきたらしく、各出演者を全方向から見てきたそうだ。
要するに上手・センター・下手全部に座って観劇してきたということなのだろう。
その情熱を耳にした時、私は自分が如何にちっぽけであるかを知った。
ただ何となく、面白そうだから生きているうちに1回見ておこうなんて物見遊山な私とは全然違うと思った。


もちろん、そうやって何が何でも行動に表さなければいけないという訳では決してないと思う。
現在置かれている立場から考えて、したくても出来ることに限りがあって全部追うなんて到底無理という人もたくさんいるだろうし。

推しなんて無理のない範囲で愛せばいいのだ!!

そう思っているはずなのに、私はそれを自分には適用できない。

推しに対して『ずっといつ何時も愛していなければならない』と思っているからなのかもしれない。
いつも心の何%かとポケットマネーの何%かを注ぎ込んで、好きだとか尊いだとか思っていなければいけないと思い込んでいる…ように思う。
だから、いつもそのうち気持ちが冷めてしまう飽きっぽい私は誰かを特定の推しだと言えなくなったのだ。

そんな私でも、軽率に好きだと言っていいのだろうか。
非課金・微課金勢でも好きだと言っていいのだろうか。
例えば、ランジャタイが好きだとか。
Mrs. GREEN APPLEが好きだとか。
Travis Japan(主に松田元太さん)が好きだとか。
他にももっと色々たくさん。


もしもそれでも良かったら、私の世界はたちまち好きで溢れると思う。
本当はもっと気楽に素直に好きだと言えたなら、幸せだろうな。
ほとんど何も注げないことだってあるかもしれないけど、好きなんだと言えた方が正直に生きていける。
だけど、飽きっぽい自分がいるのも事実でそれを考えるとやっぱり迷う。
私、素直になってもいいかしら。(了)

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