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女子大生失格

 彼女に初めて会ったのは、ある初夏の日。緑の芝が昨日降った雨できらきら輝く、地元のちょっと大きい公園でのことだった。
「ボランティアスタッフの斎宮ゆりあです」
 ふわふわで色素の薄い髪をひとまとまりに束ね、黒縁の眼鏡をかけ、飾り気のないノーメイクの肌はびっくりするくらいにすべすべ。潜在的な美少女というのはこういう子なのだろうと素直に納得できる程の美しさ。初めて彼女に会ったときの印象は、そんな感じだった。美少女なのに、今日のイベントの、正直に言ってダサいスタッフTシャツを嫌がらずに着用しているところに何だか好感が持てた。
「同じくボランティアスタッフの甲斐田倫子です」
 素人が作ったのだろうと丸わかりなデザインとクオリティのスタッフTシャツも、同じように着ているし、髪型も同じようなものなのに自分と、隣に立っている少女との違いに打ちひしがれそうになる。どんな子なのだろうか。斎宮ゆりあという少女に対して興味が湧いた。この子はどうしてボランティアスタッフとしてこのイベントに来ているのかとか、年齢は近そうだけれど何歳なのだろうかとか、普段は何をしているのだろうかとか。
 端的に言うと、仲良くなりたいなと思ったのだ。一目惚れ、みたいなものなのかもしれなかった。それだけ彼女には魅力があった。
 そもそも、今回のボランティアイベントに私は自ら望んでやってきたわけじゃない。猫の譲渡会なんて今まで縁のないイベントだし、猫の保護施設に伝手なんて本当はない。完全にアウェイの状態だった。
そもそも、私はただのしがない女子大生だ。毎日学科の勉強と、ゼミの活動と、アルバイトで忙しくしている普通の女子大生。ただ、お世話になっている先輩からの頼みを断れなかっただけで、言うなれば惰性での参加だ。けれど、斎宮ゆりあにはそういう嫌々参加していますという雰囲気が一切感じられない。人間が出来ている。
「よろしくお願いします、甲斐田さん」
「よろしくお願いします」
 スタッフ全員分の挨拶が終わり、隣に立つ少女がこちらを向いた。彼女の動きに合わせて、長い髪がふわふわ揺れる。天使のようだ、と思わず口に出しそうになって、慌てて口を閉じる。
「斎宮さん、年近そうですね。お幾つなんですか?」
「十九です。甲斐田さんは?」
「私は二十歳。一個下かぁ。若いねぇ」
「一歳しか違わないでしょう?」
 彼女は可笑しくて仕方ないとでもいうように、声を上げて笑った。笑い声すらも鈴が鳴るようで、こんな女の子が存在するのかと感動した。きっと彼女と並んだら、今流行っているモデルだって女優だってその美貌が霞んでしまう。そんな天上の美しさを持つ、それが斎宮ゆりあという少女だった。
「あの、もしよろしければ……お名前で、呼んでもいいですか?」
 頷くと、彼女は嬉しそうに何度も「倫子さん」「倫子さん」と私の名前を繰り返した。小さな肩と、耳を擽る声に愛しさが募る。さっき出会ったばかりの少女に対して可笑しなことかもしれないけれど、今すぐ彼女を抱きしめたいという気持ちで胸がいっぱいになった。彼女は天使の微笑みで、「私のことも、ゆりあって呼んでください」と言ってくれた。そのときの笑顔の可愛さといったら、言葉にできないくらいのものだった。
 彼女は、今日のようなイベントにボランティアスタッフとして参加することが多いらしい。ボランティアが趣味のようなものだと、イベントの合間に話してくれた。参加者達に水を配りながら、彼女は天使の笑みを振りまいていた。
「今日は、ここの主催の方とSNSで知り合ったのが切っ掛けで、呼んでいただいたんです」
「私は主催さんの娘の後輩」
「世間は以外と狭いですね」
 健康的とは言えない白い肌に、数滴浮かぶ汗がこの子が人間であることの証明のようだった。それが無かったら、彼女は人間よりももっと上位の存在―それこそ神とか仏とか天使とか―にしか見えなかった。その日一日で私は、斎宮ゆりあに夢中になった。
 濃い一日だったと思う。天上の美少女と一日一緒に行動して、働いて、沢山お喋りをした。彼女は交友関係が広いようで、譲渡会に来ていた人の中に知り合いが何人もいた。そんな人気者の彼女も、完璧ではないらしい。
「あ」
 ぷぎゃ、というような鳴き声と共に、鋭い猫パンチが彼女の額に直撃した。彼女は抱き上げていた猫をゆっくり地面に下ろし、苦笑を浮かべた。
「私、あんまり動物に好かれないんです…」
 私は、好きなんですけど。そう続ける彼女に片思いだねと軽口を叩く。彼女はやんわり微笑んで、遠巻きに猫を眺めていた。
「いい人に、引き取ってもらえるといいね」
「…そうですね」

 鈍い音を立てて、じゃがいもがアスファルトに転がった。夏場のアスファルトはとても熱く、焼けるようだ。じゃがいもだって料理できそうな暑さ。破れたビニール袋を手に、小学生くらいの女の子が途方に暮れた顔で立ち尽くしていた。
「大丈夫?」
 思わず駆け寄り、少女に声を掛けた。少女が着ている何かのキャラクターがプリントされたTシャツは、汗で湿っていた。少女は助けを求める顔で私を見つめる。
「お使い?」
 こくりと一回頷く。
「袋、何か持ってる?」
 首を横に振る。
「そっか。ちょっと待ってね」
 自分の鞄を漁ると、福引きで貰ったエコバッグを見つけた。
「これ、使おうか」
 少女にエコバッグを渡し、地面に散乱していたじゃがいもを二人がかりで拾い集める。最後の一つを拾おうと少女が屈んだ瞬間、遠くに自転車が見えた。危ない、と声を掛ける前に自転車は少女の直ぐ目の前までやってきた。耳を塞ぎたくなるようなブレーキ音。しかし、自転車は少女にぶつかることなく止まっていた。
「ごめんね!? 大丈夫? ぶつかってない?」
 自転車の運転手が焦ったように声を上げた。私も急いで少女のところに向かう。自転車を止めて、少女の前にしゃがみ込んでいたのは、見間違えることなんて無い、天使のような美少女、斎宮ゆりあだった。
「ゆりあちゃん……」
「あれ、倫子さん!?」
 彼女は私の姿を見た途端、花が咲くように微笑んだ。譲渡会の時とは違う華やかな服装をしていて、より人間離れした美しさを振りまいていた。白いシフォン生地のスカートも、編み込みの入った髪型もとても良く似合っている。それなのに普通のママチャリに乗って登場したのがなんだかゆりあちゃんらしかった。
「お知り合いです?」
 ぽかんとした表情を浮かべてじゃがいもを握りしめている少女に目線を向け、彼女は首を傾げた。
「ううん、たまたまね」
 私は乱暴に見えないように少女の手からじゃがいもを奪い取り、それをエコバッグに詰めた。これで全部だろう。
「一人で行ける?」
 首を縦に振る少女に。笑い掛ける。それを見て、天使は急いで鞄から個包装されたラムネ菓子を取り出した。
「さっきはごめんね。良かったらこれ食べて」
 女の子は嬉しそうに目を細め、それを受け取った。
「……ありがとう」
「どういたしまして」
 名も知らない少女は私達の方を何度も振り返りながら、去っていった。私の隣に立つ天使は、その姿が見えなくなるまでずっと手を振り続けていた。
「倫子さんは、優しい人ですね」
「ゆりあちゃんの方が優しいよ。……自転車、大丈夫? ブレーキ、すごい音してたけど」
「はい」
 彼女は乗っていたママチャリをざっと確認し、「大丈夫です」と元気に宣言した。
「あのエコバッグも、倫子さんのでしょう? 見ず知らずの女の子にそこまでできるのが、倫子さんの美点だと私は思います」
「買い被りすぎだよ」
 薄く笑って首を振る。見た目も中身も天使のような美少女に言われて、素直に認めるのは少し恥ずかしい。自分はそこまで出来た人間ではないのだと暗に伝えるが、善意の塊である彼女には通じなかったようだ。
「この後、お時間ありますか? 倫子さんさえ良ければ、お茶でもしませんか?」
 天使の誘いに、思わず頷いていた。実際、予定もなければ家に帰っても一人だ。今日みたいな良い天気の日に、一人きりのアパートに帰る必要はないだろう。しかもこんなに可愛い女の子からの誘いだ。断る必要が無かった。

 数日前、天使と連絡先を交換した。最初に会った譲渡会の時は何だかんだバタバタしていたうえに、未成年である彼女はその後の親睦会に参加せず帰っていったから、交換するタイミングも無かった。シンプルだけれど女の子らしいラメの散りばめられたケースに入っているiPhoneは、少し古い型のものだった。『また、お誘いしてもいいですか?』とスマホを握り締め首を傾げる彼女に、ノーとは言えなかった。いつでもいいよ。待ってる。そんな無責任な言葉を吐いてしまい、本当に良かったのかと一瞬迷った。すると彼女は、負担にならない程度にしますと言い笑った。
 そんな事を言い合って、未だに彼女からの連絡は無かった。彼女だって学校があるし、急がしいのだろう。そんな事をぼんやりと考えながら、首に掛かった髪を払い除けた。面倒くさいからと言って、髪を梳いただけで出てくるべきでは無かった。私は少し前の自分の決断に心底後悔した。
 斎宮ゆりあ。年齢は十九歳。色素の薄いふわふわの髪と、現実味の無いくらいに白い肌を持つ美少女。家でだけかけている少し野暮ったく見える黒縁眼鏡も彼女のふわふわとした雰囲気を加速させる装置でしかなかった。私の通う大学からバスで十分のところにある女子大に通っている。実家暮らしのお嬢様。アルバイトはしておらず、そもそも親からの許可が出ないらしい。だから代わりと言っては何なのだが、ボランティア活動に精を出しているらしい。ある意味趣味のようなもの。彼女はそう言って微笑んだ。そんな彼女は今、駅前で募金箱を手に何やら活動している。お揃いの腕章を付けた人が周りに何人かいるから、何かのサークル活動なのかもしれない。
「ゆりあちゃん」
 炎天下の元、帽子を被るだけで禄な熱中症対策をしているように見えない天使の元へ歩み寄る。周りの人達からちらちら見られている気がしたが、彼女の知り合いだと分かると皆それぞれ散らばっていった。
「倫子さん。お久しぶりです」
「ボランティア?」
「はい」
 話しながら鞄を漁り、財布を取り出す。小銭入れの中に入っていたのが十円玉と五円玉だけだったのでそれらを全部彼女の持つ箱へ放り込んだ。じゃらじゃらと小銭がぶつかり合う音がした。
「何の募金なの?」
「倫子さん、それって募金する前に聞くことでしょう?」
 仕方の無い人。と笑いながらも彼女は懇切丁寧にこの募金の目的である障害者支援施設のことや、募金で集まったお金の使い方などを解説してくれた。
「そういうこと、私自身は積極的にやることないけどさ」
「はい」
「ゆりあちゃんの行いが立派だってことは、よく分かるよ。尊敬してる」
「倫子さん……」
「偉いね」
 そう言い、帽子超しに彼女の頭を撫でた後で自分の言葉の傲慢さに気付いた。彼女が気を悪くしなければいいけれど。彼女の表情を盗み見ると、予想外に彼女は頬を赤らめて、とてもとても嬉しそうに口元を綻ばせていた。
「…ありがとう、ございます」
「熱くない? 大丈夫?」
 その頬の赤さに、さっきまで忘れていた暑さを思い出した。ゆりあちゃんの首筋には、汗が一筋伝っていた。
「少し熱いですけど…自分で決めてやっていることですから。それより倫子さん、髪暑そうですね」
「あぁ……」
 絶世の美少女の前で、少し恥ずかしかった。もっと可愛い格好をしてきたら良かった。恥ずかしさを誤魔化すように、私は洗い立てのハンドタオルで彼女の首筋の汗を拭った。
「少し待ってくださいね」
 そう言い彼女は、さっきまで大事に抱え込んでいた募金箱を一端地面に置き、自分の物らしいリュックサックから手早くヘアゴムとヘアブラシを取り出した。そのまま彼女は私の髪を結おうとしたので、慌てて止めた。
「どうしてですか?」
「募金中でしょ? こんなことしてていいの?」
「割と緩い会なので大丈夫ですよ。皆、友達ですから分かってくれています」
 ちらりと周りを見渡すと、生暖かい視線がいくつか見つかった。その視線はどれも「貴方も彼女に魅了された人なのですね」という同族意識のような気がした。そうなのだ。彼女に魅せられた。一目惚れだった。きっとここにいる何人かの『友達』もそうなのだろう。
「……汗、かいてるから。あんまり、触られると……恥ずかしいっていうか」
「ふふ、倫子さんも私の汗、拭ってくれたじゃないですか。気にしないでください」
 彼女はそんなことどうでもいいだろうとでも言うように。朗らかに手を動かし始めた。首に張り付いた髪をかき上げて、高い位置で一つに結ばれる。そしてそのままお団子に。そして仕上げとばかりに赤い羽根を差し入れた。募金に協力したら貰えるあれだ。彼女が写真を撮って見せてくれた。
「すごいね」
「ふふ、倫子さんの髪の毛綺麗ですね。弄り甲斐があります」
「ところで、この後、暇?」
「暇ですけれど……倫子さん、学校でしょう?」
 痛いところを突かれた。これから授業だ。行かなくては。
「私の方も、まだまだ掛かりますから。放課後…あ、折角ですからお夕食、ご一緒してもよろしいですか?」

 斎宮ゆりあは前述した通り、お嬢様だ。本人はそんなことないと否定するけれど、所作や言動、持ち物を見ているとそこら辺の庶民とは違うと直ぐに分かる。そんな彼女を連れていくに当たって、私はどんな店がいいのかさっぱり分からなかった。普段、友達と行くような安い居酒屋もファミレスもファストフードもダメな気がした。そんなの天使に似合わない。気も漫ろなままその日の授業を乗り切って、彼女からのメッセージに指定されていた待ち合わせ場所へ行こうと校舎を出た。
「…あ」
「倫子さん!」
 正門前、帰宅する生徒の群れを避けるように、ひっそりと、でも存在感はしっかりと、私の天使が立っていた。募金中は譲渡会の時と同じように一つに束ねられていた髪は、私に施したのと同じようにお団子に結い直されていた。
「待ちきれなくて、来ちゃいました」
「ごめんね、待たせた」
「いえいえ!」
 ふるふると揺られる首に合わせて、今日揺れるのは繊細な飾りの付いたイヤリングだった。ピアスじゃないところが、彼女らしい。
「それ」
「はい?」
「イヤリング。可愛いね」
 そう言うと、彼女はわかりやすく喜色を見せた。照れくさそうにイヤリングを弄り、鞄を肩に掛け直した。
「どこ行く? ゆりあちゃんが何好きとか知らなくて、お店とかも詳しくないし」
「あの!」
 少し興奮したような声を上げ、彼女は小さく挙手した。その仕草すら可愛らしい。
「もし、もし倫子さんさえ良ければなんですけど……」
「いつも思うけど、その『よろしければ』っていうの、別にいいよ」
「え?」
「私、ゆりあちゃんのこと、あの、友だちとして好きだし、そんなに言わなくても用事が無い限り滅多なことじゃなければ断らないから」
 苦笑を含ませてそう告げると、彼女は更に嬉しそうな表情で私の手を取った。初めて触れた彼女の手は、想像していたより、大きく、節くれだっていた。きっと彼女はいつも誰かの為に頑張っていて、この手はその証拠なのだろう。そう思うと少し荒れたこの手が、愛おしくて仕方がなかった。
「あの、ですね。うちで、ご飯食べませんか?」
「へ」
「両親とも仕事で今日は帰ってこなくて、私、一人なんです……。あ、私料理は一応できるので、何か作ります!」
 照れと慌てによってたわたわと話す彼女が可愛くて、なんだか嬉しくなった。天使の住む家に招かれた。
「迷惑じゃないのなら、行きたいな」
「是非来てください!」
「私も料理、手伝うね」
 やんわりと私の手首を掴む彼女の手を解き、手を繋ぎ直す。まるで幼い子どもに戻ったかのような行為だが、擽ったさはあれども嫌悪感は無かった。天使は一瞬呆気にとられていたが、恭しく手を握り返してくれた。

 彼女が連れてきてくれたのは、地元の高級スーパーだった。普段買い物している安売りスーパーの倍以上のお値段に目眩がしそうだ。
「…あの、ゆりあちゃん」
「はい」
「半分、払うからね」
 本当は全額払うと言うつもりだったが、この値段は少し厳しかった。外食したほうが安いくらいだ。
「ああ、いえ。これ、明日の分も入っているので大丈夫です。代わりに、持って帰るの手伝ってくださいね」
 涼やかな天使の笑みで全てを押し切られる形で、私は買い物袋を半分持つことになった。がさがさとビニール袋を揺らしながら、半歩先を歩く彼女を追いかける。彼女の立ち止まったところはぱっと見で分かるくらいの豪邸だった。ちょっとした洋館といった風貌で、ここで彼女が育ったのだと納得した。天使の育った場所だと、納得した。
「お邪魔します」
「はい、狭いところですが」
「逆に嫌味だよ……」
 手伝うよ、と彼女に着いて行く。彼女は目を細めて「お願いします」と私にエプロンを渡した。
 彼女の料理の腕はプロ並みだった。もし彼女が将来飲食店をするのなら、毎日通いたいと思うくらいだ。彼女に対する私の好感度は限界突破状態だけれど、それを差し引いても本当に美味しかった。生のバジルを使い一から作ったソースが絡むチキンソテーも、彼女特性のマヨネーズソースのポテトサラダも、トマトとモッツァレラのカプレーゼも、常備菜なのか冷蔵庫から出てきたカラフルな野菜をゼリー寄せのようにして固めたもの、キュウリのピクルス、オリーブ…。大きなテーブルいっぱいに彼女は料理を作ってくれた。私なんて洗い物をしたり野菜を切ったりしかしていない。正直な賞賛の声を上げれば、彼女はにっこり微笑んで、
「それは、倫子さんへの愛が込められているからですよ」
と、さらりと躱された。そのうえ、「普段からこんなに作るの?」という私の質問には「倫子さんが来てくれると思って、気合い入れちゃいました」と可愛らしくガッツポーズを決めた。
「あの、もしよろしければ…」
「言い方」
 彼女は「あ、」と小さく声を上げ、恥ずかしそうに俯いた。
「倫子さん」
「うん」
「泊まって行きませんか?」
「迷惑じゃない?」
「迷惑なら、こんな事言い出しません」
 きっぱりと言い切る彼女に、なんだかお互いに気を使い合っている現状をしみじみと実感した。私はきっぱり話してもらう方が気楽だし、彼女はきっと普段からこうなのだろう。だから友達が多いのかもしれない。こんな可愛い天使のような子に、食事をご馳走する、泊まっていってと言われて悪い気はしない。
「じゃあ、ゆりあちゃんの好意に甘えようかな」
「はい、是非」

「お風呂ありがとう。良いお湯だった」
「それは良かったです」
 ふかふかのタオルで髪を拭きながら、ソファに埋もれるように座り、テレビを見ている彼女に近寄る。
「…ニュース?」
「はい」
 彼女が見ていたのは、車に置き去りにされたことにより死亡した幼子のニュースだった。テレビ画面を見つめる彼女の横顔は、その現実への憂いに溢れていた。
「…ゆりあちゃん」
「私、こういうことを無くしたくて今の活動をしているんです。意味無く死にゆく子どもが居なくなるように、理不尽な迫害を受ける人が居なくなるように。悲痛に鳴く犬や猫が居なくなるように」
 彼女に貸して貰ったネグリジェはびっくりするくらいに上等なものであった。自分だけが柔らかいタオルや、肌触りの最高の服に身を包んでいるこの状況に、むずむずした。これはきっと罪悪感というものなのだろう。きっと彼女はいつもこんな感情を持っていて、だからニュース一つであんなに悲痛な面持ちをしているのだろう。無性に彼女を抱きしめたくなった。私は勢いに任せて彼女の眼前に回り込み、自分の胸に彼女を掻き抱いた。
「あ、あの倫子さん」
「ゆりあちゃん」
 愛おしかった。彼女のことが、愛おしかった。
 彼女の憂いを取り除いてあげたかった。彼女には笑っていて欲しかった。
「ねえ、ゆりあちゃん。私は。あなたの為に何ができるの?」
 最初は呆然とされるがままであった彼女は、ゆっくりと私の背中に手を添えた。
「……もう少し、このままで」
 その晩、私達は天蓋のついたふかふかの大きなベッドで、二人手を繋いで眠った。

 最近、どうも付きまとわれているような気がした。大学への行き帰り、買い物途中、食事中、どこからともなく視線を感じる。私がその相手を見つけようと周りを見渡すと、その視線はすっと消える。私に気付かれたくないみたいに。
「…不快だ」
 誰かの視線も、ここ数日じとじと降り続いている雨も。
 視線について言えば、彼女と待ち合わせをしているカフェでもそれは無くならない。早く彼女が来ればいいのにと願いながらまだ湯気の出ているコーヒーに息を吹きかける。最近、彼女の家へ度々お邪魔させて貰っている。彼女の家で彼女の手料理を食べ、半分くらいの頻度で泊まっていく。さすがに迷惑なのではと最初の頃は頻繁に断っていたのだが、その度に彼女が心の底から残念そうな顔をするので、頻繁に彼女の好意と優しさに甘えている。どうやら彼女のご両親はあまり家に帰ってこない人らしく、彼女はあの洋館で殆ど一人暮らしのような生活をしているようだった。
『倫子さんが居てくれると、寂しくならないので、できれば一緒に居てください』
なんていう可愛い言葉に甘やかされ、私はかなりのハイペースであの家に通っていた。今日はどうするのだろう。また家に誘ってくれるのだろうか。金銭的な問題としても、肉体的、精神的にも、それ以外でも、彼女の負担になりたくない。そう思う自分と、彼女ともっと一緒にいたいと思う自分がいる。彼女といると、どんどん私はわがままになっていく。
 彼女に想いを馳せている間も、例の視線は私に付きまとう。早く彼女に会いたい。そうすれば、あの不快な視線も気にならなくなるのに。
「倫子さん」
 そう考えていると、目の前に天使が降り立った。手には季節限定商品のピーチティ。彼女はコーヒーが苦手で、紅茶を好む。私は両方飲めるし好きだけれど、彼女の淹れてくれる紅茶が一番好きだ。
「待たせましたか?」
「大丈夫。私もさっき来た所だから」
 椅子を引いて座る仕草でさえも美しい。彼女と出会ってから、私の毎日はキラキラ輝いている。
「さっきからキョロキョロしてらしたようですけど、どうかなされましたか?」
 こてん、と首を傾げ彼女に、内緒話をするように顔を寄せる。
「…なんか、最近視線を感じて」
「視線?」
 今日、彼女と待ち合わせをしたのはそれが理由だった。私が一番信頼を置いている彼女に、相談がしたかった。
「うん。何て言うか、ずっと見張られているっていうか」
「ストーカーということですか」
 彼女の言い方は疑問というより断定だった。その通りだと私は頷く。
「今のところ見られているだけで私は何も被害がないからいいんだけど、もしゆりあちゃんに何か合ったら心配で…」
「そんなことでしたか」
 彼女は仕方が無いな、とでも言うように苦笑を浮かべた。飲み物を包み込むように組んだ手の指先が、綺麗な赤色に彩られていることに今気付いた。普段はもっと早くに気付けるのに。心に余裕がなかったのだろう。今更だけれどそれを褒めると、天から光が差し込むような笑顔を拝むことができた。
「サロンでやって貰ったの?」
「いいえ、自己流です。…倫子さんもしますか? 私、練習したんです」
「あ、そうだった」
 今日の本題を忘れるところだったと背筋を引き締める。正直、こんなことは言いたくないけれど、これも彼女の為なのだ。よく分かっていないという顔をする彼女の手に手を重ね、目を合わせる。
「あのね、だからね、ゆりあちゃん。このことが解決するまで、あんまり会わないようにしよう?」
「……はい?」
「私は大丈夫だけど、いつ標的がゆりあちゃんになるか分からないでしょ? もしゆりあちゃんに何かあったら、私、怖い。だから解決するまでゆりあちゃんは安全な所にいて欲しいの。……お願い」
「……」
 彼女は信じられないと言うように目を見開いた。未だによく分かっていないような、分かっているような微妙なリアクション。…これで、彼女に嫌われたらどうしようという気持ちも勿論ある。けれど、今はそれ以上に彼女の身の安全が大切だと判断した。こんなに可愛くて完璧な女の子を、危ない奴の視線に晒したくない。
「……ゆりあちゃん?」
「倫子さん。……それじゃあ倫子さんが一人になっちゃう。私の家に住んだらいいじゃないですか。そうすれば安心です」
「ゆりあちゃんが危ないよ」
「じゃあ、そのストーカーが居なくなれば、また、今までどおりに会えるんですね?」
 彼女は俯いたまま話す。あの可愛らしい顔を拝めないのが残念で仕方がなかった。私は彼女の言葉に肯定で返した。そうだよ、きっとすぐにまた遊べるようになるから。そう伝えると彼女は顔を上げ、ぎこちないながらも微笑みを浮かべた。
「……わかりました。倫子さんが大丈夫だと思えるようになったら、連絡ください。いつでも、待ってます」

 そんな会話をした三日後。例の視線はあっさりと無くなった。様子見としてそれから更に二、三日周りを伺いながら生活したがやはり視線はどこからも感じない。
 そんな当たり前のことが嬉しかった。ストーカーがいなくなったことがではなく、これで心置きなく彼女に会えるようになったことが嬉しかった。
『ゆりあちゃん。会いたい』
 彼女に送ったメッセージはそんな簡潔なもの。何が起こったのかも、ストーカーがどうなったのかも何も説明無し。それでもきっと彼女なら分かってくれるだろうという甘えがあった。そしてその甘えを許してくれるだろう彼女の優しさを分かっていた。
 早く彼女に会いたい。彼女の甘い声が聞きたくて、彼女のふわふわの髪の手入れがしたくて、彼女の使うハンドクリームの花の香りが嗅ぎたくて、彼女の見た目に似合わず逞しい手に触れたくて、彼女の手料理が食べたくて、彼女の慈愛に満ちた瞳で見つめられたかった。私の唯一無二の天使様。一つ年下の可愛い友人。私の大切な人。彼女を想うと居ても立ってもいられなくて、手早く出かける準備をすると私は家を飛び出した。雨上がりの土の香りが、私の気持ちを持ち上げた。
 彼女からのメッセージに気付いたのは、彼女の家の最寄り駅に到着した時だった。
『今、体調を崩しています。倫子さんにうつると悪いので、また今度ではダメですか?』
『ですが、倫子さんが気にしないというのなら……』
『すみません。やっぱり見なかったことにしてください』
『おやすみなさい』
 はい、そうですか。と帰るつもりは無かった。私はいつも彼女が買い物をしている高級スーパーを素通りし、コンビニに入る。
(お米は……有るはず。あとは卵……は有るか分からないから小さいパックを買って)
 一通り看病に必要そうな物を思いつくまま買い物かごに放り込む。ゼリー、ヨーグルト、カットフルーツ、アイスにスポーツドリンク。食欲があるならと惣菜の肉じゃがとサラダも。ここら辺は最悪私の夕食にでもすれば良い。熱があるのかは分からないが冷却シートも買っておく。これだけあればなんとかなるだろうと思えてから、やっとの事でレジへ向かう。
 内心すごく焦っていた。彼女が体調を崩すなんて。普段から一人で生活している彼女にとって、酷く不安な時間だったろう。それなのに、私が「会わないようにしよう」なんて言うから、助けを求めることも出来なかった。そんなことを考えながら彼女の家の前に着いた瞬間。もしかして私はとても迷惑なことをしようとしているのではという気持ちになった。
 もしかしたら、彼女は一人でいるほうが休まるのかもしれないし、他にも看病してくれる人がいるのかもしれない。それこそ恋人とか。既にもう看病して貰っているのかもしれないし、それなら私が行くほうが迷惑なのではないか。さっきまでのあまりに傲慢な自分の考えにぞっとした。私は彼女の何になったつもりだったのだろう。
 迷惑していたストーカーが消えたことで、少し浮かれ過ぎていた。ベルを鳴らそうかどうか悩み、もう一度彼女のからのメッセージを見返した。
「……」
 アイスが溶けるから、とか。最悪差し入れだけして帰ればいい、とか。色々言い訳は考えた。でも、そもそも彼女は伏せっているのだ。誰かを出迎える気力すらないかもしれない。暫くの間彼女に会っていないだけで、こんなにも考えが暗くなってしまう。彼女に会いたい。
『……はい』
 インターフォンから聞こえた声は、どこか沈んでいた。
「……ゆりあ、ちゃん」
『倫子さん?』
 少し待っていてくださいね。彼女の掠れた声が聞こえ、暫く後に扉が開いた。
「……倫子さん、来てくださったんですね」
「会いたくて」
「はい」
「……入っても、良い?」
「はい」
 火照った頬に、やはり熱が出ていたのかと心配になった。いつからなのだろう。食事はしっかり採れているのか、水分は? ずっと一人だったのだろうか。いつもはふわふわの髪も、今日は汗でしっとりしているように見えた。寝間着のネグリジェも皺が寄っていた。
 彼女に着いて家に入れてもらう。普段よりどこか散らかった廊下やリビングが、彼女が一人で苦しんでいたことを物語っていた。
「ご飯、食べれてる?」
「…あまり。作る気力が、無くて」
 恥ずかしそうに言う彼女をソファに座らせて、気晴らしにテレビでも着けてからキッチンへ向かう。
「……ベッドの方が良かったかな」
 リビングを出て直ぐだったが、引き返す。キッチンとリビングとダイニングそれぞれ結構な広さがあるこの家では、どこに居ても声が伝わるなんてことがない。
「ゆりあちゃん…?」
 リビングの床に座り込んで、何かのファイルを片付けている彼女に声を掛ける。すると、こちらが驚くくらいの勢いで肩を跳ねさせた彼女に何をしているのか問いながら、気軽にそれを覗き込んだ。
「これ、…………なに?」
 そこには男の写真と細かい字がびっしりと書き連ねられていた。被写体は全て黒髪に眼鏡の冴えない男。ページを捲ってもその男のことばかり書かれている。写真はどれも目線がこちらに向いておらず、隠し撮りのようなものばかりだった。そんなものを、天使のような美少女が所有していることが信じられなくて、呆然と彼女を見つめた。
「なんで……」
「見られ、ちゃいました、ね」
 熱でふらふらとした体で、彼女は立ち上がった。長い髪が動きに合わせて左右に揺れる。影になっていて、彼女の表情が見えなくて、それが不安で仕方が無かった。彼女は熱に侵された声でゆっくり語る。
「……倫子さんが、私のことを心配してくれていることは分かっていたんです。倫子さんは優しい人だから。最初から私、知っていましたよ。倫子さんがどれだけ優しい人なのか。動物にも。子どもにも好かれて、挙げ句の果てに変な男にも好かれて。私、心配だったんですよ」
 彼女に引き寄せられて、その胸に抱きしめられる。私が彼女を抱きしめたことは有ったけれど、逆は初めてだったことに気付いた。彼女の胸は温かくて、柔らかい。私の背に回された彼女の手は、びっくりするくらいに熱かった。
「だから、私、倫子さんのことを苦しめている人について、できる限り調べたんです。男なのか女なのか、年齢、性格、仕事、全部」
 彼女の肩越しに、床に散らばるファイルを見る。そして思い出した。そこにファイリングされている男について。
「この人……私のバイト先の、常連さん……」
「はい。こっそり、私、この男の後を着けてみたんです。あの……倫子さんのことを、この男」
 垂れ流しだったテレビから、男性の死亡ニュースが流れていた。反射で顔を上げるが、当たり前にそれは彼とは全くの別人で、駅で若い女の子に痴漢を行ったり、ホームで態と人にぶつかったりといった迷惑行為を繰り返していた人であったらしい。他殺体で見つかったのだそうだ。しかも、全裸で土の中から。
『……警察は被害者の着ていた衣服の………』
 アナウンサーが機械的に文章を読み上げる。確か、まだ新人の子だったはず。現実逃避気味にそんな事を考えた。
「どうして、これを……」
「倫子さんに会いたくて…………」
「……」
「……もし、これを倫子さんに見せることができて、警察とか、弁護士とか、そういうのを頼れたら、あなたはきっともっと早く私の所に戻ってきてくれるんじゃないか、なんて思っていました」
「うん」
「でも、それより先に倫子さんの方から来てくれました」
「うん」
 彼女の、考えていたことが少し分かった気がした。彼女は彼女なりに、私の為を思って頑張ってくれていたのだ。それが嬉しかった。
「でも、もうこれは必要ないね」
「はい」
 何があったかは分からないが、男は突然私のストーカーを止めた。だから、もう彼女がこんな危険なことをする必要はない。
「普段からこんなことしているの?」
 彼女に抱きしめられたまま、笑い混じりにそう聞くと彼女は「時々」とはにかんだ。彼女はいつも誰かの為に彼女自身を献げている。今回だって、私の為にストーカーの相手を調べ、証拠も集めてくれていた。最初はびっくりしたけれど、彼女の好意が嬉しかった。
 一瞬でも、彼女が邪なことをしているのではと疑った自分が酷く醜く感じた。
「……もう、ゆりあちゃんは心配性だなぁ」
「倫子さんだって」
「……もう大丈夫だよ」
「私もです」
 彼女の体は熱かった。

 彼女は私の作った卵粥と、レトルトの肉じゃがを少し食べ、家に常備されていた薬を飲みソファでうたた寝を始めた。本当はベッドで寝て欲しいのだが、私が来て安心したようだった。
(……そりゃそうか。ずっと一人だったんだもんね)
 こんな広い家に、未成年の女の子が一人。いつも誰かの為に心を砕いて、にこにこ笑っている。私のことも、こんなに深く愛してくれている。いつか、彼女が寂しくない世界になりますように。そんなことを願ってみたりもした。
膝に乗った彼女の頭を落とさないように、私も残った卵粥と肉じゃがを食べた。本当は茶粥を作ってあげたかった。私の好物だから。具合の悪い時、いつも実家の母親が作ってくれたものだ。今回は彼女に栄養のあるものを食べて欲しくて卵粥にした。
(明日は、茶粥にしよう。…それで、卵焼きを焼いて…あとは、何が食べたいかな)
 彼女の喜ぶことを全部してあげたいと思った。彼女の為に何でもしてあげたいと思った。
「ん……」
「ゆりあちゃん、起きたの?」
 長い睫に縁取られた瞳が、ゆっくり開く。熱で潤んだ瞳が美しいと思った。彼女は自分の状況を確認するように数度瞬きをしてから、私の膝に甘えるように頭を擦り付けた。
「倫子さんだ……」
「お風呂入る? もう寝るならベッド行こう?」
「……汗、気持ち悪いから、お風呂、入りたいです」
「わかった。準備してくるから、ゆりあちゃんはもうちょっと寝てていいよ」
 小さな頭をゆっくりソファに下ろす。食器を重ねて持ち上げる。これをキッチンに持っていって、水に浸けてからお風呂の準備をしよう。不安げに私を見上げてくる彼女の頭を、少しでも安心できればいいと願い撫でた。
「……早く、戻ってきてくださいね」
「すぐ戻ってくるからね」
 彼女の家にお邪魔して、初めてダイニングでない所で食事をした。今日の彼女はとても疲れた顔をしていたから、直ぐに横になれる場所がいいかと思い判断した。彼女も嫌がらなかった。そもそも、普段は彼女が二人では食べきれないくらい沢山の料理を作ってくれるから、ダイニングのテーブルの方が勝手が良いのだ。
(私が彼女に料理を作ったのは、初めてのことかもしれない……)
 料理と言ってもただのお粥だけれど。
(今度はもっと、ちゃんとしたものを……)
 彼女と一緒に居る時も、彼女と居ない時も彼女のことばかり考えている。どれだけ彼女のことが好きなのか、と苦笑を浮かべた。
「あ、お湯溜めてる間に着替えとか準備しないと」
 勝手に部屋を漁るのは良くないと躊躇したのは一瞬だった。何度も足を踏み入れた部屋の扉を開く。
「……ん?」
 いつも甘やかな良い香りのする彼女の部屋の様子が、何だかおかしかった。
「……?」
 いつもより散らかっている印象を持った。それに、生臭いというか、鉄臭いというか、そんな匂いがする。胸がざわざわして、手探りで部屋の電気を付けようとするが上手くいかない。
「倫子さん」
 鈴の鳴るような、天使の音色。彼女の声に肩を震わせた。その驚きで触れた壁に丁度電気のスイッチがあったようで、突然明るくなった部屋にまた驚いた。
 赤黒い服が乱雑に床に散らばっている。彼女の私物らしい上品なスカートから、男性物のようなジーンズもある。鉄臭い。普段、服はクローゼットにしまわれているのに。体調が悪くて掃除もできなかったのだろうか。後で掃除してあげないと。
「どうしたんです、こんな所で」
 半開きのクローゼットから、大きなゴミ袋が覗いている。ああ、あのゴミ袋のせいで部屋がこんなに散らかっているのかと納得した。捨ててあげないと。無意識的にそう思い、部屋の奥へと進む。クローゼットの扉を大きく開き、邪魔な袋を引きずり出す。とても、とても重かった。これ一つで六十キロ以上あるのではないだろうか。
「倫子さん」
 必死でゴミ袋を部屋から持ち出そうとする私の手に、彼女の手が重なった。
「重いですよ。それに、汚いです、それは」
 やんわりと私からゴミ袋を奪った天使は、そのままそれを部屋の隅に押しやった。
「……それは、倫子さんにとって良くないものですよ」
 何故だか、この瞬間、先ほどテレビでやっていたニュースを思い出した。あの時死亡したと報道されていた男の、行方不明になっていた当日の衣服。液晶画面に映っていたそれと、彼女の部屋に散乱しているそれは、何だかとても似ている気がする。
「本当は、一ヶ月とか、二週間に一人のペースにしようと決めていたんですけどね」
 天使の微笑みで、彼女はゆっくり話し出す。蕩けるような、優しい声で。
「でも、大好きな倫子さんが困っているみたいでしたから……。だから、もう既に今月のノルマは達成した後だったんですが、もう一人分、私、頑張ったんですよ」
 褒めて褒めて、と強請る子犬みたいに無邪気に彼女は笑った。
「いつもは慈善事業としてやっていることなので、特定の誰かの為、というのは初めてで少し緊張しました。……なんだか、照れくさいですね」
 何も考えられない。何が現実かよく分からない。私は、伏せっている彼女の看病に来たはずなのだ。じゃあ、いつもの彼女はどこなのだろう。彼女の瞳はいつもの、慈愛に満ちた天使の瞳で、髪とかは少し乱れているけれど、そんなの些細な問題だ。彼女の美しさはそんなことでは損なわれない。話す声だっていつもと同じ、蜂蜜よりもシロップよりも甘い甘い溶けるような声なのに。何かが可笑しいと私は本能的に感じ取っていた。背筋が凍る。冷や汗が泊まらない。怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖いこわい。
「待ち伏せしている間に沢山濡れてしまって……雨の日に決行する必要は普段なら無いなって思っていたんですけど、倫子さんに一日でも早く安心を届けたくて。体調管理も出来ない女だって、呆れていませんか……?」
 何も考えたくなかった。彼女の言葉の意味を。彼女のしてきた事を。彼女の思想を知るのが恐ろしかった。
「でも、倫子さんはちゃんと来てくれましたよね。……私、それが嬉しくて…………」
 優しく、優しく抱きしめられた。彼女からは、ちゃんといつも通りの天使の香りがした。甘い、女の子の香りだ。
「倫子さん、側に居て……」
 ああ神様。私の愛らしい天使は、もうとっくに堕ちていたようです。


表紙:フリー素材PAKUTASO https://www.pakutaso.com/20130828233post-3182.html


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