見出し画像

僕たちは終末を想いロケットを飛ばす

 地球脱出まで、あと数ヶ月を切ったというところだった。
 二学期の中盤、十一月に入る少し前くらいから連絡が付かなくなった悪友から、スマートフォンにメッセージが届いた。メッセージの内容はシンプルで、日付と時間、場所が順に記され、最後に
『待っている』
とだけ残されていた。
 指定された時刻通りに、指定されたファミレスへ行くと、そいつは今まで行方不明であったのが嘘みたいな気軽さで、
「よぉ」
と、右手を上げた。
「おう」
 同じく右手を上げることで応える。四人掛けのボックス席。そいつの目の前に滑り込むようにして座った。そんなこと、一言も言われていないのに、何故か忍んでいないといけないような気持ちがあった。
 待ち合わせ相手の男は、暢気にフライドポテトを摘まみながら「久しぶり」と、悪びれも無く言ってのけ、俺は相手のその気安さに多少面食らった。
「お前、まじ、今まで何してたの」
「色々。……何か頼んだら」
 奢るよ、とこの男にしては不自然なほど穏やかな声で言われ、俺は当てつけのようにこのファミレスで一番高いステーキセットを注文した。勿論、ドリンクバーも付けた。
 注文したセットが全て届いてから、俺を呼び出した張本人はやっとのことで重い口を開いた。
「おれ、地球に残ることにしたから。よろしく」
「は」
 フォークとナイフで、四〇〇グラムのステーキ肉を細切れにしていたところだ。この男の言うことが、俺には理解できなくて、ぽかんと口を開いたまま動きを止めた。
「……どういうことだよ、ヨル」
「そのままの意味だって。あのね、アサヒ。おれ、まだやらないといけないことがあるから、地球に残るよ」
喉が震えて、叫び出す寸前だった。混乱がピークに達するところだった。ここが夕食時のファミレスでなかったら、目の前の悪友の襟首に掴み掛かっていた。
「……ヨル、お前ニュース見てるよな?」
「うん。ついでに新聞も毎日読んでるけど」
 始めて知った。俺より成績の悪い男だから、新聞なんて紙の束、無縁なものだと思っていた。
「じゃあ、地球が終わるってことくらい、知ってるだろ」
「終わるって。大げさだな……。地盤がちょっとズレるってだけだろ」
「全世界同時にだぞ⁉ 死ぬ気か⁉」
 思わず大きな声が出て、周囲の視線を一身に集める。
 羞恥心で俯いた時、隣のテーブルのパフェグラスが大きな音を立てて床に叩き付けられた。それが呼び水になったかもように、大きな揺れがファミレスを襲った。
「うわ、」
「地震だ」
 ここ数年、今までと比べものにならないくらいに地震が増えた。まるで、地球崩壊までのカウントダウンのようだった。
 周囲の客も、店員も慣れた様子で頭を低くし、テーブルの下などに隠れる。俺も、ぼんやりとしているヨルの手を引き、テーブルの下にしゃがみ込んだ。
「……なんで残るの」
「おれ、無重力だめなんだよ」
「死ぬよりはマシだろ」
「……」
「……」
 暫くして、揺れが治まると、店員はテーブルを回り割れた食器や零れた料理の処理を始める。
「宙人って知ってる?」
「ソラビト?」
「そう」
 ヨルは手を伸ばして、俺が切り分けたステーキ肉を自分側に引き寄せた。テーブルの下は、先ほどの揺れのせいで水浸しになっていた。
「お前はさ、自分の乗るロケットがどういう理論で飛ばされるか知ってる?」
「あれだろ? 何か新エネルギーがどうこうって」
「それは対外用の説明。まあ、知らなくて当たり前なんだけどさ」
 ヨルはそこで一度話を止め、ギリギリ無事であったジュースの最後の一口を飲み干す。ストローを使っているせいでズルズルという下品な音が鳴る。思わず眉を顰めた。
「実際は、おれとかみたいな特別な人間の力によるものなのだ。良きに計らえ」
「何言ってんのお前」
「……マジレスするとさぁ。エネルギー事態は地球の力みたいなのを使ってるわけよ。自然ばんざーいって」
「だから何言ってんのお前」
 ヨルは半笑いのまま立ち上がり、ドリンクバーのお代わりを注ぎに行った。その後ろ姿を見ていると、ヨルが髪を掻き上げた拍子に普段は長い髪に隠れているピアスが、店の電球に反射して光った。
「ただいまー。ほら、お前のぶんも持ってきてやったから。感謝しろ」
「お前、ピアス増やした?」
 音信不通になる前は両耳会わせて四つ。片耳二つずつ付けていたピアスが、それぞれの耳に一つずつ増えていた。
「うん。軟骨のところに開けてみた。お前もどう?」
「痛そ。パス」
 ヨルの持ってきた謎のドリンクに口を付ける。炭酸のシュワシュワと、お茶系の苦みと何かよく分からない風味がミックスされていて、正直不味い。
「まずっ、お前これ何混ぜた」
「おれら宙人の使命は、地球と宇宙船の縁を切らさないようにすること。地球からのエネルギー供給がなくなれば船は飛べなくなるから。だから移住先の星に到着するまで船を守らないとならないの」
 週間雑誌の漫画の続きを語るかのような口調で、ヨルは話を続ける。実際、ヨルに漫画のネタバレを食らった時も同じトーンで話していた。
「だから、おれは最後まで地球に残るよ」
 話は終わったとばかりに、ジュースを飲み始める。ヨルはいつもこんな風に突然何かを言い出して、自分が満足すればそれで話を終わらせる。こいつはずっと、そういうやつだった。
「そろそろ出るか」
 いつの間にか、俺が注文したはずのステーキセットは全てヨルの腹の中に収まっていた。結局俺はここまで呼び出され、不味いドリンクを飲まされただけだった。
 今まで気付かなかったが、ヨルは足下に愛用のショルダーキーボードを置いていた。ケースは水が少しかかって、濡れていた。
「お前、今でも曲作ってんの」
 それは、質問ではなく確認だった。NOと言われない確信があった。
 既にファミレスの、座り心地の良いとも悪いとも言えないソファから立ち上がっていたヨルは、かがみ込んでキーボードケースを持ち上げた。
「当たり前じゃん」
 こちらに目線だけを投げかけたヨルは、そのまま伝票を手にレジへと向かう。俺も愛用のギターを手に、それを追いかけた。
「さっき言ってたやつさ」
「ギャグだよ。全部冗談だから、忘れて」
「……お前、何日の船で移住するの」
 ヨルは答えなかった。

 ヨルという男は、出会った当初からああいうやつだった。陰気そうな黒い髪で校則違反のピアスを隠していたし、無口な割にあいつの作る曲は沢山の感情で溢れ返っていた。
 いつだが、あいつはこう言っていた。
『自分が、崇高なことをしているなんて思ってないよ』
 キラキラとした目でヨルを見つめていた、後輩の女の子に言い放った一言だった。彼女は確か、体験入部にやってきた子だった。ほんの少し前まで中学生だった少女の目には、あいつのアンニュイな雰囲気が大人っぽいものに映ったれたのだろう。
『夢を見るのは自由だけれど、おれにそういういの期待しないでほしい』
 俺の記憶が正しければ、少女は酷く傷ついた表情を浮かべ、それ以来彼女が軽音部の部室にやってくることはなかった。お前のせいで念願の女子部員を逃したのだと恨みがましく不満を垂れる部員達にも、ヨルはクールに対応していた。
「もうちょっと、上手くやればいいのにさ」
 ギターの弦を張り替えながら、思わず口に出ていた言葉に一人苦笑する。ここ数日、ヨルのことばかり考えている。本当に必要なことは何一つ口にしないのに、言わなければ良いことばかり言ってしまう。そんな男が、わざわざ自分を呼び出してまで、地球に残ると宣言した理由を知りたかった。
 ヨルの話を全部信じることなんてできない。違う星に移住するという現実以上に非現実が起っているのだ。これ以上、SF染みたことが起こるなんて思えなかったし、思いたくもなかった。
「…………」
 中古で買った安物のチューナーをセットする。ギターをかき鳴らしてみると、想像以上に高い音が鳴り眉を顰めた。少し調整して、再び鳴らす。頷いて、次の弦へと移る。
 順番に弦の調整を行っていると、隣の部屋にいる妹に壁を叩かれた。
 もしも、俺がこの地球に残ると言ったなら、妹や両親、そして祖母はなんと言うのだろうか。きっと、両親は必死に止めてくれると思う。可愛げのない妹はどうだろうか。あまり想像が付かなかった。祖母は、穏やかに見えて苛烈な人だ。張り倒されるかもしれない。
 ヨルの両親は、ヨルが地球に残ると言っていることを知っているのだろうか。例え、戯れ言だったとしても、あの男がそんなことを言っていたということを、知っているのだろうか。
 ヨルの両親は、二人とも穏やかで、互いを尊敬し合っている、まるで映画の登場人物のような理想的な夫婦だった。何度かあいつの家に遊びに行った時に、一緒に食事をした。お世辞にも礼儀正しいと言えない俺に対しても、とても良くしてくれた。
 うちの両親は、よく笑い、よく喧嘩し、尻に敷かれ、尻に敷いて、とにかく騒々しく毎日を過ごしている。初めてヨルの両親を見た時、こういう夫婦の形もあるのか、とカルチャーショックを受けたのを今でも覚えている。
「ヨル」
 お前は一体、何を考えている。

 地球脱出まで、残り一ヶ月となった。それでもいつも通り学校はあるし、仕事もある。いつも通りに過ごしながらも、誰もが浮き足立って、新天地への不安と期待を盛っていた。
 皆、自分はいつの船で脱出するのだという話を、毎日のようにしていた。
「朝飛は?」
「うちは妹がウサギ飼ってるから。ペット同伴のやつで行く」
「うちも。やっぱ置いていけねーよな」
 愛犬自慢が激しい友人が、スマフォの壁紙を見ながら表情を崩した。デレデレしやがって、彼女でも作れと野次が飛ぶ。会話の内容を覗くと、驚くくらいにいつも通りだった。
「そういや、結局夜流ってどうなったん?」
「あいつ、ずっと連絡つかねぇよな。朝飛は連絡付いた?」
「え、あ」
 思わず、「俺も」と首を振った。そうだよな、とクラスメイト達の同意を受けながら、むくむくと罪悪感が湧いてくる。こんなことで嘘を吐いてしまった。それでも、ヨルのことを追及されたら、なんと言葉を返せばいいのかわからなかった。
 ヨルは今、どこにいるのだろうか。

 ヨルの作る曲が好きだ。その気持ちがなかったら、きっと俺はヨルとあんな風に仲良くなっていなかったと思う。
 胡散臭くて、陰気で、無口で、その癖にクソデカい感情を心の中に隠し持っている、あんな面倒くさい奴と一緒に行動するなんて、ヨルと出会うまで想像すらできなかった。偶然同じ部活に入って、偶然あいつの才能に触れて、不覚にも感動してしまって。
「うわ……寝てた」
 ふて腐れて部室で眠っていたら、いつの間にか外が暗くなっていた。部員どころか顧問も来ない廃れた軽音部の部室だなんて、寝過ごすにはもってこいの場所だった。
「あれ、起きたんだ」
「……いるなら、起こせって」
「あはは」
 陰気っぽい黒い髪を掻き上げて、快活にヨルは笑った。いつからいたのかとか、どうして学校に来ていないのかとか、聞かなければならないことが沢山あるはずなのに、口から出るのは不自然なくらいに普段通りの言葉だけだった。僅かな明りに反射して、ピアスが光っていた。
「最後に、学校に来とこっかなぁって思って。荷物とかも取りに来たかったし」
「……聞いてねえって」
 寝起きだからか、呂律が回っていない気がする。頭の回転も普段より悪い。
「信じる?」
「まあ……信じてもいいかなとは、思った」
「良い奴過ぎる」
 ヨルはそう言って笑った。俺の前では、ヨルはよく笑う奴だった。だからヨルの一番の友だちは、自分だと胸を張って言うことができた。けれど、それと同時に自分がヨルに、そしてヨルの作る作品に悪影響を与えてはいまいかと思う瞬間もある。
「親御さんは、知ってんの?」
「うん」
「止められなかったん?」
「まあ、仕方ないし」
 地球に残ると言う一人息子を、見送るしかない父と母。あの人の良さそうな二人を思い出して、少し泣きそうになった。誤魔化すように瞬きをして、大きく伸びをする。目尻に貯まっていた涙が流れた。
「……ギター弾く」
「こんな時間に? 警備の人とかいないの?」
「いいから」
 珍しくまともなことを言うヨルに、駄々を捏ねる俺。ケースから相棒を取り出して、簡単にチューニングを行う。ヨルに、お前も準備をしろと急かす。どうせ、こいつもキーボードを持ってきているのだろうと確信していた。こいつは、そういう奴だ。
「お前の曲、やろう」
「今ぁ?」
 半笑いでケースからショルダーキーボードを取り出すヨル。その半笑いは、照れ隠しなのか、それとも別の意味合いが含まれているのか、俺にはわからない。
「じゃあ、あれやろう、ライブでやる予定だったやつ」
「ん」
 本当は、一月の初めくらいにヨルと、俺と、部長と、そして部長の他校にいる友だちの四人で地元の小さなライブハウスでライブをする予定があった。ヨルが行方不明になって、ライブハウスの経営自体が去年いっぱいで終わり、なんだかんだと流れてしまった小さなライブの存在を、この男が覚えていたことに驚きだった。
 ヨルなら、きっと、もっと大きな舞台に立てるのに。俺はキャパ一〇〇人程度の小さなライブハウスすらあいつに用意してやれなかった。
「さん、はい」
 ヨルの気のないかけ声で曲が始まる。ギターとキーボードのみの、地味な演奏。ベースもドラムもないけれど、ヨルは全く気にした様子はなかった。
あまり大声にならないようにという今更過ぎる遠慮をしながらも、俺は歌った。退廃的で、厭世的なヨルの作る世界観。それに合わせて、二人で考えた歌詞だった。片思いに悩む少女も、季節の美しさもなく、ただ世界の理不尽さと、叫び出したいくらいの感情を放り込んで、二人で夜遅くまでハンバーガー屋に居座り、書いた。
 ヨルのお母さんが心配して、何度かスマホにメッセージを送ってきていたのを、ヨルは「今書かないと」とかなんとか言って、全て無視していたことだけは鮮明に覚えている。
「うん、結構いける」
「最近、練習してなかった?」
「時間無くてさ」
 眉を下げて笑うヨルを見て、思った。きっとこれから、俺の世界にヨルの音楽は存在しなくなるのだと。ヨルの音のない世界で、俺はこれから生きていくのだと。
「お前、一人になるの」
 俺の質問には答えずに、ヨルはただ、
「帰ろっか」
と俺の腕を引いた。

 船の搭乗ゲートは、人でごった返していた。高齢の祖母がいるからと、比較的早い段階で船に乗り込めた俺ら家族は、与えられた小さな個室で無言だった。これから初めての道を行くのだ。宇宙に飛び出して、数ヶ月の時間を掛けて未知の星へと降り立つのだ。この時ばかりは、普段から生意気な妹も、母親にひっついて離れようとしなかった。
「……ちょっと、外の空気吸ってくる」
「ギターくらい、置いていけばいいだろう」
「俺の魂なの。片時も離れられないの」
 父に舌を出して、ギターケースを手に取る。掌に変な汗を掻いている。ケースを一度下ろし、ジャージのズボンでそれを拭った。きっと、俺のこれからやろうとしていることは、最低で親不孝で兄として許されないことだ。
「……」
「お兄?」
 妹が、訝しげに俺に視線を向けた。彼女の膝には、ウサギの入った小さなキャリーケース。一度しゃがみ込んで、その鼻先に指を近づける。ウサギは、禄に世話もしていなかった俺の指を、興味深そうに嗅いだ。
「いや、皆、無事に行けるといいなって」
 そのまま、家族に背を向け、船室を出る。

「ねえ」
「うわ」
 最後の最後まで格好が付かない。船室から出て直ぐに、妹に声を掛けられた。
「追いかけてきたのかよ」
「これ」
 妹が右手の拳を突き出してくる。
「グータッチ?」
「うざ」
 いいから、と促され、掌を上にして出した。そこに妹は、古いロケットペンダントを少し乱雑に、でも恭しくも見えるように置く。
「おばあから。……あげるってさ」
「……なんで」
「知らない。……お兄、何か考えてる?」
「お兄の頭が空っぽだった言いたいんか? バカにしてる?」
「そうじゃないけど」
 狭い船の廊下で、向かい合う俺ら兄妹にすれ違う乗客達は迷惑そうな、あるいは怪訝そうな顔を向ける。俺なんか、大きなギターケースを持っている。
「……なあ、よく聞け」
「やだ」
「兄ちゃん、もう帰らないから。ばあちゃんと、母ちゃんと、あとついでにオヤジのことも、よろしくな」
「やだ」
「やだって」
 妹は無言で俺の腹にパンチをする。俺は中学生女子の、痛くも痒くもないそれを甘んじて受け入れる。
「……何したいの。お前」
「仮にも兄にお前はないだろ」
「残ってやることなんてどうせないじゃん」
「それがあるんだよ、実は」
 妹は俯いている。どんな表情をしているのかは分からないけれど、小さい頃から泣き出す寸前はこんな風に俯いて、地面をじっと見つめている子だった。
「正義のヒーローごっこ? 青春ごっこ? 自分カッケーみたいなこと考えてる? バカじゃん」
「大丈夫だって」
「バカだ」
 妹は、強い視線で俺を睨みつける。俺は、ギターケースを何度も持ち直した。
「おばあが、大事にしてたロケットだよ。形見だよ。おばあに何渡させてんの」
「ばあちゃんの第六感みたいなの。すげえよな。俺何も言ってないのに」
「せめて、何か言い残せよ。ママ、泣くよ」
「かもなぁ」
 俺は最低な兄で、最低な孫で、最低な息子なのだろう。俺がこれから何かしようとしていることに気付いている妹が、酷く痛々しくて、その小さな頭を撫でようとしたら、全力で振り払われた。先ほどのパンチより、余程痛かった。
「俺にとっての世界そのものみたいな。そういうやつがいるんだ」
「……女?」
「男」
「ホモじゃん」
 本気で嫌そうな顔をする妹に、「ちげえよ」と笑う俺。先ほどまでより、少しだけ自然な表情を浮かべることが出来ているだろうか。
「まあ、お兄がお気に入りの楽譜とか、全部置いていくって言うから、可笑しいなぁとは思ってたけど」
「これから取りに行く」
「やっぱバカ」
 妹は、眉を下げて笑った。俺がバカをやらかした時の母と同じ顔だった。こんな時に妹と母の血の繋がりを感じたくなかった。
「……いいよ。私にはお兄の人生とか関係ないし」
「ありがとな」
 今度は、頭を撫でても嫌がられなかった。妹は緩く俺の服の裾を引き、内緒話をするかのように耳元に口を寄せた。
「私が、裏口の見張りの人の気を引くから。本気で行くつもりなら、その一瞬で決めて」
「さすが俺の妹」
 泣きそうなのを我慢して、笑顔を作る。妹がまだ幼稚園くらいの時、こうして二人で悪企みをしていたことを思い出す。今より、妹は俺に向かって沢山笑いかけてくれていた。俺は妹を守ることが唯一の使命とでも思っていたので、ずっとこの子の手を握っていた。
「ばいばい」
 妹は無害そうな笑顔を浮かべ、裏口の警備員に声を掛けた。警備員が妹に気を取られている隙に、俺はそっと船から出た。妹とこんなにきちんと会話をしたのはいつぶりだっただろう。きちんと会話をしたといっても、本当に伝えたいことは何一つ伝えきれていないような気がした。けれど、家族だから全て伝わっているように感じた。ヨルが聞いたら、これを怠慢だと言って嗤うだろう。
そして、きっと妹はこの時の事を一生後悔するだろう。兄を見殺しにしたこと。家族に嘘を吐いたこと。俺の知らないところで、彼女はそれらを一生悔やんで生きるのだろう。ごめんとは伝えられなかった。ありがとうと言うことで、彼女の中の最後の俺の記憶が良い物であればいいと願う。

「バカじゃん」
 酷く既視感のある台詞だった。今頃、俺にそう言ったあの子は宙の上だ。
「もう、一般用の船は終わったんだけど」
 不機嫌そうに俺を睨み付けるヨルと二人、人のいないロケット発射場で対峙する。こうしてヨルと二人話をすること事態は珍しくなかったし、ヨルが不機嫌なことも珍しくないけれど、こんな風な怒り方をするヨルを見るのは初めてだった。
「後は何用の船が残ってるの?」
「……おれらの船」
「え、お前も結局行くの?」
 ヨルに脛を蹴られる。結構痛くて、蹲る。船か降りたときも浮かべなかった涙が浮かぶ。
「マジっで、バカじゃん」
「怒ってる?」
「怒ってる!」
 ヨルが声を荒げるところを、初めて見た。自分の選択は間違いだったのかと、一気に不安になる。
「ごめ、ヨル。でも俺」
「言い訳は聞きたくない。……両親とか、好きだったアーティストとか。あと、アサヒが乗る船だからって、一生懸命、役目を果たそうとしてたおれの気持ちはどうなんの」
「ごめん……」
 ヨルは大きく溜息を吐いて、おもむろに肩を組んできた。俺は突然掛けられたヨルの体重を支えきれずに、二人纏めて地面に倒れた。
「これから、俺以外の、日本の宙人全員を乗せた船を飛ばす。お前もそれに乗れ」
「は、」
「一人くらいなら大丈夫だと思うから。仕方ないからおれがお願いしてやるよ」
 ヨルは俺の上に乗っかったまま語る。説得なんてつもりはなく、それはヨルの中では決定事項でしかないようだった。
「お前は」
「残るよ」
「お前以外のソラビト? っていうのは、皆移住するの?」
ヨルは俺の肩に頭を乗せ、頷く。見え辛い上に、肩に骨とかピアスが当たって痛かった。
「日本で正式に残るのはおれだけ。他の日本人は全員、異星に移住する」
「正式にって?」
「戸籍が無い人とか、もう移動ができないレベルの重病人とか、後は、なんだろ。お前みたいなのとか。そういうのが、若干名残ってるんっぽいよ。おれもきちんと確認したわけじゃないし」
 そういうのは、おれら超能力者の仕事じゃないんで。と冗談めかして言われたが、笑えなかった。
「なあ、俺も残る」
「駄目でーす。お前はおれの飛ばす船に乗って、異星に行くの。大丈夫。他の宙人達結構良い奴だから、お前とも仲良くしてくれるって。楽しいフライトになるよ」
「逆に聞くけどよ。お前は何で残るんだよ。お前じゃなくても良かったんじゃねーの」
 そう言うと、ヨルは俺の肩に頭を乗せたまま、手を伸ばして俺の頭を撫でた。我儘を言う子どもを叱るように、それは暫く続けられた。
「アサヒは残酷なこと言う」
「何が」
 ヨルの手が俺の頭から離れ、今度は自分のピアスを弄り始めた。軟骨に開けるのって、痛くなかったのかなとか、そういうどうでもいいことが気になって仕方が無かった。
「それ、おれ意外の誰かに死ねって言ってるようなもんじゃん。さいってー」
 ぐうの音も出なかった。唇を噛む。痛いけれど、妹に振り払われた手ほどじゃなかった。
「まあ、それは建前として。おれがそんな慈善事業するタイプだと思う?」
「全然」
「だろぉ?」
 少し満足そうに笑うヨルに、頭突きを食らわす。痛いとヨルは笑う。俺も笑った。人口の殆どが地上から離れていった日本で、俺とヨルは普通の高校生みたいにして笑う。
「見てみたいものがあるんだ」
「へえ」
「最後まで聞けって」
 笑い声が、どうしても噛み殺せない。何でもないのに笑ってしまうこの感覚、いつか大人になったら忘れてしまうのだろうか。それが寂しくて、俺はギターを弾いていたのかもしれない。ただ、俺には絶望的に作曲の才能が無かった。俺が並べた音は、どんな音も、なんだかしっくりこなかった。
「地球の最後をさぁ、見たら、おれ、どんな曲作れるんだろうなあって。思って」
「それでマジで残ろうとするとか、ロックじゃん」
「ばーか」
 ヨルを巻き込んで、地面に寝転がる。ロケット発射場の床は、冷たい。
「俺もそれ、見たい」
 嘘だ。正確には「お前の作った曲が聴きたい」だ。

 ヨルと二人で、最後の船を見送った。俺らの親くらいの年齢の男の人が、ずっと泣いていた。泣きながら、ごめんとか、ありがとうとか、もっと言葉にもなっていない言葉とかをずっと呟いていた。声量に比べてそれは悲鳴のようだった。俺もヨルも、笑顔で皆を見送った。一番近くで船の発射を見ていたが、結局どういう原理であれが空を飛ぶのかは分からなかった。
「これからどうする?」
 何となく、二人の足はかつてライブが出来なかったライブハウスに向かっていた。電車が止っているので、徒歩だけれど、男子高校生の足ならそんなに厳しいものではなかった。ローテクな世界で必須なのは脚力と自転車かもしれない。実家から持っていくものリストがまた増えた。
「あ、」
 一言そう漏らした後、説明もなくふらふらと閉店済みのペットショップに向かって行くヨルを追いかける。犬も猫も居ないはずだ。国の決まりで、愛玩動物系統も全部連れていくと決めたらしい。そもそも、動物を置き去りにしたら生態系が云々とかいう理由があったような気がするが、あまり覚えていなかった。
「何」
「魚。残ってる」
 店先の水槽の中。一匹のベタが取り残されていた。
「これ、捕まえて食べようか」
「……」
「……ギャグだよ」
「笑えねー」
 そうこうしているうちに、ヨルがガラス扉を割り開けそうになったので、この無作法な盗人を引きずって裏口を探した。鍵をこじ開け、二人で競い合うようにして中に入る。
「まじで、どうするつもり?」
「連れて行こう。放っておくのも目覚め悪いし」
「まあ、良いけど……なんか、蓋のある入れ物とかじゃないと、直ぐ逃げるぞ」
 ヨルはバックヤードに残されていたタンブラーを手に取った。
「これでいいか」

 コンビニに残っていた廃棄のおにぎりと、タンブラーに詰められた小さな魚。後はギターとキーボード。それで俺たちの荷物は全てだった。
 次のライブで使わせてもらう予定だったライブハウスは、地下にある。まるで秘密基地のようにひっそりと存在するそこに行くことを、毎回密かに楽しみにしていた。
「心許ないなぁ」
「ほんと。これからサバイバルだよ。どうする」
 淡々とライブハウスの鍵をこじ開けようとする俺の肩を、ヨルは掴んで止めた。
「これ」
「え」
 どや顔で差し出されたのは、裏口の合鍵だった。
「……犯罪だろ」
「違いますー。……店長さんがさあ。いつもここに鍵隠してたんだよ」
 ヨルが指したのは、ポスト。
「ポスト開けて、上側にテープで貼ってあんのよ。もしもの時用って」
 そういえば、ヨルは店長さんのお気に入りだったということを思い出す。ヨルは決して愛想の良いやつではないけれど、ヨルの作る曲と、遠慮の無い話しぶりが店長さんはいたく気に入ったようだった。人間性とかじゃなく、この高校生のガキをアーティストとして扱ってくれていた大人だった。
「前、上でご飯食べてる時にこっそり教えてもらった」
 ライブハウスの上は店長さんの道楽で不定期に経営しているバルだった。俺の何度かご相伴に預かった。店長さんの作る料理は絶品だった。

 バケツの中に離されたベタは、元気に泳ぎ回っていた。ヨルはぼんやりとそれを眺めていた。
「お前が前に飲みたいって言ってたフラペチーノ? 結局飲めなかったな」
「うん」
「一人で行かなかったん?」
「うん」
「俺は付き合わされれずに済んで良かったけど」
「……ばぁか」
 息を吐き出すように、ヨルが笑う。
「お前、甘いもの苦手だから」
「そもそも量多いんだって」
「あー、曲作りたいなー」
 本当だったら今頃ライブが行われていたかもしれないステージの上で、ヨルは大の字に伸びた。贅沢なベッドだと思った。硬くて、寝心地は最悪かもしれないけれど、ヨルはステージの上に、死ぬ直前までいるような人間だから。
「作ればいいじゃん」
「……おれさ、地球が終わる瞬間を書きたいんだよ。今じゃないの」
「我儘か」
 戯れにギターに触れながら、ヨルの様子を窺った。ヨルは相変わらずで、ただ、手元に愛用のショルダーキーボードが置いてあり、そのケースのポケットからボールペンと五線譜が覗いていることに安心した。
「よし、散歩行こう」
「……今何時か分かってる?」
 時計は深夜を指していた。
「学校の心配も無いんだし」
「危ないかもしれないだろ」
「何女の子みたいなこと言ってんの」
 ヨルに手を引かれて、歩き出す。
「お前の生きた証を、おれが残してあげる」
 どや顔で中二病全開なことを言い、やつは繋いだままの手を振り上げた。一緒に振り上げられた手はほんの少し痛かったけれど、悪い気はしなかった。
 人気のない夜の街は想像より楽しかった。ホラーゲームみたいで、どこからか怪物が飛び出てきそうで、わくわくした。下手したら、言い出しっぺのヨルより、俺のほうが楽しんでいる気がする。
「あ、ヨル。病院。肝試ししよーぜ」
「だめ」
「怖いの? 大丈夫だって」
「お前のために言うけど、病院には近づくなよ」
「はあ?」
 町一番の大学病院の前を、ヨルは早足で通り過ぎる。俺も渋々その後に続く。一人で肝試しなんてしても、面白くない。最後にせめてと、未練がましく入院棟を見つめていると、ヨルに注意を受けた。そんなの、面白いものなんて何一つ無いと。
 窓に、もがき苦しむ男の像が映った気がした。

ヨルは自由気ままだ。人気のないコンビニに入り込んでみたり、どこの誰とも知らない家庭のソファで寛いでみたり。そして、道路の真ん中だったとしても、いきなり座り込んで楽器を弾き鳴らす。人がいないから、文句も言われない。
俺も段々慣れてきて、即興でセッションをしたりもしたし、声の音量を気にせずに歌ったりもした。どこでもカラオケができるような気分だった。
食料の調達と、水の確保と、街の探索で一日が終わる。合間合間にヨルは曲を作って、俺は店長が残していったらしい楽譜をかき集めて、ずっとギターを弾いていた。何か、新しいことを吸収するのは楽しかった。今度は、野菜でも育ててみるかと算段を立てたりもした。
ヨルの五線譜が、どんどん埋まっていく。所々書き直されて、新しく付け足されている。
どうやらこれは、俺の遺書らしい。ヨルは何も言わないけれど、そういうことになっているようだ。だから俺もヨルに何も言わなかった。俺が何かを言ってしまったら、ヨルを責めるみたいになってしまいそうだったから。
「ヨル、お前、洗濯物出せよー。洗うから」
「んー……」
「お前なあ」
 勝手にヨルの服をかき集めて、持ち出す。着替えがないと泣きついても知らない。ヨルはベタの観察に夢中で、生返事しかよこさないのだ。
 青いヒレが、ステージの照明を反射してキラキラしている。その姿は、確かに文句の言いようがないくらいに美しい。ヨルはどうやら、ベタのための曲も作っているらしい。滑らかに流れ出てくる沢山のフレーズの中から、あの魚に最適なものを取捨選択していくヨルの顔は、楽しそうだった。
 ヨルをステージに放置して、たらいと洗濯物を手に外に出る。不思議なことに、電気も水道もまだ通っている。ライフラインの断絶まで、まだ少し猶予があるみたいだ。もしくは、残っている人の誰かが、今でも僅かな人々の為に働いているのかもしれない。
「ま、だからと言って無駄使いはできないなぁ」
 洗濯物を手洗いすることになるとは、思っていなかったと一人で笑う。たらいに張った水の冷たさが気持ち良くて、さらにはしゃぐ。ヨルも来れば良かったのにと思って、あの男の偏屈なところは今に始まったものではないと思い直す。
 今度は少し遠出して、川とかで遊ぶのもありかもしれない。きっと、ヨルはそこでまた新しい曲を作るのだろう。そして、俺たちは河原で演奏をする。
 ピンと張ったロープに、洗濯物を干していく。今になって、母親の手伝いをもっとしておけば良かったなどと思い、そのあまりの手遅れ加減に可笑しくなる。
 家族のことは、あまり考えないようにしている。今の毎日は、何だかんだと楽しい。大変なところもあるけれど、俺はヨルよりよっぽどこの地球に順応している。向こうの星はどうなっているのかとか、妹はどうしているのかとか、親は泣いていないかとか、祖母は元気かとか、気になって仕方が無いけれど、答えのない問答に耽るには俺はまだ若すぎる。
 祖母から譲り受けたロケットは、家事をするには少し邪魔で服の中に直してしまっていた。気が向いて、引っ張り出したそれの中身を開いてみる。中身は妹の七五三のときに撮った家族写真だった。この頃の妹は素直で可愛らしかったな、と思い出す。
 少し前に、もぬけの殻となった自宅を散策した。ヨルは興味津々に俺の部屋を漁っていた。俺はヨルを放置して、両親の寝室に向かった。自室のほうは今更ヨルに見られて不味いものなんてない。
 アルバムや、思い出の品などは全部無くなっていた。残っていたのは家具と、いくつかの服と、もういらなくなったのであろう本や雑誌くらいだった。家族の思い出は、あの家自体と、スマフォの中に入っているデジタルの写真のみになってしまった。
「現像かあ」
 コンビニのコピー機とかでできないものだろうか。インターネットが繋がらない状態だから難しいだろう。スーパーマーケットにある有線の機械ならできるかもしれない。
「電気が無くなるまでに、なんとかしたいなあ」
 あまりにも、やらなければならないことが多かった。

「うわ」
 大きな揺れだ。慣れたとは言え、さすがに不安にもなる。ベタの入ったバケツを守るために、抱える。ヨルも無言でこちらに寄ってきた。普段可愛げのない野郎が、こういう風に寄ってくるのはなんだか不思議な心地がした。
「結構揺れたな」
「これって、震度どれくらいなんだろ」
「わからん」
 そういった専門家の中で、地球に残った人はいるのだろうか。
 棚に並べていたヨルのピアスが軒並み床に散らばっている。これを拾い集めるのが俺なのかと思うと、溜息が出る。手先が器用なヨルは手作りキットなどを使い、新しいものをいくつか作っていた。お前もやってみるかと尋ねられたこともあるが、俺は未だにそれを断り続けている。
「魚って、揺れに弱いとかあるんかな」
「どうだろ……。揺れのストレスとかで死んだりしないよな……?」
 ヨルは不安気に水面を覗き込んだ。
「でも、海とか川とかの揺れで、魚が死んだとかって聞いたことないし、大丈夫だろ」
「……うん」
 ベタは悠々とバケツの中で泳いでいる。せっかくヨルに見つけて貰ったのだから、長生きしてもらいものだ。

 時間に縛られることのなくなったヨルは、一日の大半を作曲に捧げていた。ベタのために作った曲、無人の学校を想い作った曲、星空を見て作った曲、俺のための遺書。
重なった五線譜を整理しながら、俺はそれらの名前もなく、歌詞もついていない曲達へ送る言葉を考えた。この曲には歌詞はいらない、こっちの曲には歌詞を付けて、俺が歌おう。そんな風に分けてファイリングしたり、場合によったら勝手にギターソロを付けてみたりした。
合間を縫って、俺はヨルのため、五線譜の調達をするために何度も馴染みの楽器屋に忍び込んだ。意味はないと思ってはいるが、貯金箱の中身を全部ここに置いてきた。どっちにしろ、俺達にはもう必要のないものだ。
「結構、溜まってきたな」
「うん、これだけあればワンマンライブできるじゃん」
 ヨルは、満足そうに楽譜の束を抱え込んだ。
「じゃあ、とりあえずこれで第一弾は終了ってことで」
「何の」
 それはそれは楽しそうに、ヨルはステージの上でターンを決めた。ライブの時だって、こんなに機嫌が良いのは希だ。
「まだ電気通ってるってことは、コピー機は使えるよな? コンビニ行くぞ!」
「何する気……?」
「楽譜できたからコピーするぞ」
 この大量の楽譜を全部印刷する気なのか。俺としては、自分の分の楽譜が貰えるのなら、演奏する時に楽だし、書き込みだって気を遣う必要がなく良いことしかない。
「全部三部ずつコピーするから。手分けするぞ」
 ヨルに追い立てられ、俺は楽譜の半分を受け取り、近くのコンビニへと向かう。ヨルは、反対側に向かう。きっと、別のコンビニに行くのだろう。
「気をつけろよー!」
「アサヒも!」
 そしてヨルは俺に背を向ける。

「じゃあ、始めるぞ」
「おう」
「既存も合わせて、全部で一〇曲。アサヒはMC長いし、これくらいで丁度良いんじゃない?」
 ヨルはどこから持ってきたのか、デジタルカメラをセットしながら、つらつらと段取りについて説明を続ける。俺は、それを眺めながら、ギター片手にステージに立っていた。
「全部覚えたよな?」
「まあ。練習時間だけはあったから」
 ヨルの合図で、録画が始まったことを知る。俺もヨルも、ステージに立つように用意していた衣装に袖を通していた。本当は、沢山の客の前でこれに袖を通す予定だったのだ。部長のセンスで用意されたそれは、俺としては嫌いじゃなかったが、ヨルは慣れるまで文句ばかり言っていた。ゴリゴリのロッカーを意識した合皮のジャケットは、妹からの評判も悪かった。ヨルの付けているピアスも、いつもと違う。ライブ用だと言っていた、お気に入りのものだった。本番と同じくらいの気合いの入れようだった。
「観客なんていないのにさ」
「いるじゃん。ほら」
「魚じゃん」
 カメラの横には、たった一匹の観客である青い魚がバケツの中で悠々と泳いでいた。そのことが何だか可笑しくて、二人、顔を見合わせて笑った。
「それじゃあ、一曲目」
 一曲目は、俺らの中では掴みの曲として鉄板だった既存曲。ベースもドラムもない重みのない音だったが、ヨルは満足そうだった。
 本日のライブのセットリストに、俺の遺書は含まれていなかった。

 俺達はデジタルカメラの中からメモリーカードを取り出し、コピーをした大量の楽譜と共に紙袋に詰め込んだ。母親がため込んでいた紙袋の群れがこんなところで役に立つとは思わなかった。
 その紙袋は、ヨルがいつの間にか用意していた小さなロケットの中に詰め込まれていく。俺の腕で抱え込めるくらいのサイズのロケットは、どんな素材で作られているのか想像も付かなかった。
 じわじわと太陽に焼かれるような熱さに、服の袖で汗を拭う。人っ子一人いない公園の風景だけは、いつも通りに見えた。
「お前、本当にいつの間にこんなの作ってたんだよ」
「アサヒが細々としたことしてた間ぁ」
 ヨルは間延びした声で応え、笑った。不健康そうで、陰気そうな長い髪を一つに結んで、笑うヨルは、名前に似合わず案外昼間の太陽の下が似合っていた。ヨルのこういうところを知らないまま死んでいく人が、少なくない人数いる現実が、心の底からもったいないと思う。
 この小さな、猫くらいのサイズのロケットはこれから俺達の親や友人の住む星に向かって飛んで行く。そういえば、妹の飼っているウサギは元気にしているのだろうか。宇宙に飛ばされたクドリャフカは死んでしまったけれど、あのウサギは妹が大切に膝に抱えていたのだから、そんなことは無いと信じたい。
 今の日本には、ウサギも猫も犬も殆ど存在しない。ノアの箱船の如く宇宙船に詰められて、崩壊する危険の無い星へ移り住んだのだ。
「一応聞いておくけど、家族とかに手紙とか残さなくていい?」
「映像があるんだから、充分だろ」
 人は、誰かを忘れる時にまず声から忘れるという。俺はきっと母の声も、父の声も、祖母の声も、妹の声も忘れるけれど、四人はもしかしたら俺の声を覚え続けてくれるかもしれない。そんな希望が、微かに存在すると思うと安心できた。
「じゃあ、これで完成」
 ヨルは最後にぽんぽんと二回、小さなロケットを叩き、満足そうに頷いた。そして、ロケットを地面に置き、花火をするような気楽さでそれの下方に火を付けた。
 そうして、俺達の曲を詰めたロケットは空へと飛んでいった。その光景は、家庭用の打ち上げ花火に似ていた。高校一年生の時に、ヨルと二人で、今日と同じ公園で、初めてのライブの後にやった花火。バカみたいに楽しかった思い出だ。
「地球崩壊の曲を作るまでに、何回飛ばせるかなあ」
「どんなペースで作るつもりだよ。こっちだってギターアレンジしたり、曲覚えたり大変なんだからな」
「まあ、時間はまだあるっぽいし、気楽に行くか」
「話聞けよ」
 じゃれ合いながら、公園を後にする。そして地球最後の曲は、ラブソングとかが良いななんて考える。太陽は地球の終わりなんて関係なく、照り続けている。もうすぐ夏が始まる。

表紙:いもこは妹 さん https://www.pixiv.net/artworks/56126639

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?