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私たちの中にある「不安」を形にするアーティスト、Anne Imhof(アンネ•イムホフ)の“Faust“とは。

アンネイムホフは絵画、彫刻、インスタレーションからパフォーマンスまで幅広く活躍しているドイツの芸術家だ。
現在はベルリンとフランクフルトを拠点に活動し、これまでにはMoMA やテートモダンなどでも作品を発表している。
イムホフの作品は現代人が抱える孤独、テクノロジーなどの「不安」を象徴しいるものがほとんどだ。
そして今回は2017年にヴェネチアビエンナーレで金獅子賞を受賞し注目を集めた「Faust」についての考えていく。Faustは日本語で様々な物を掴む「拳」を意味し、この握りしめた手は抵抗、訓練、戦闘の象徴でもあり、また拳をあげれば革命と連帯の象徴でもある。そしてイムホフは私たちを縛り付ける様々な物事(スマートフォンの使いすぎ、止まらない資本主義など)に対しての現状を美しくも奇妙に表現している。

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空間の中に入ると鉄骨とガラスの床が地上1メートルの高さになっている。パフォーマーたちは壁に固定されている金属製の手すりにぶら下がったり、床の下や周りに現れて動き始める。鑑賞者はガラスで出来た床の上に立ち地下を歩くパフォーマーたちを覗いたり写真を撮る。それはまるで動物園の動物を見るかのように鑑賞者はパフォーマーをみているのである。
またイムホフとパフォーマーたちは常にスマートフォンでコミュニケーションを取り合う。時には暗い空間の中でスマートフォンだけが光る瞬間もある。私たちのアイデンティティがスマートフォンの画面上でどれだけ形成されているのかを思い起こす。

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鑑賞者が集まりパフォーマーの方を向いてみていると鑑賞者がどんどん増えて物語が集団的な影響によって勝手に進んでいく。その全容を把握しようと鑑賞者は考え困惑するが、そのような出来事は私たちの生活の中でも気付かぬうちに起きている。
イムホフは「他者」の視線と世界全体の光景のもとで主体を呼び覚ます。イムホフの出来事に没頭する事で私たちは見ることと見られる事の喜びを直接触れることになる。パフォーマーたちは互いをチェックし合いデートの前の自分の姿を確認しあうかのように、スマートフォンのカメラを自分に向け、私たちが抱いている自分への幻想を表現している。

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パフォーマーたちの動きには意味がある。
強者が無力者のヒエラルキーや社会契約に縛られた、それを破るような動きだ。ある時にはパフォーマーが下から出てきて、ガラスの上に鑑賞者とともに一緒に立ち、目を下に向けて、一緒に直立した状態でお互いに近くでポーズを取り合う。また別の場所では別の鑑賞者に囲まれた場所でガラスの地面に横たわる男性と女性が絡み合っている。突然のレスリングや愛撫、優しく抱き合う。かと思えば下にいたパフォーマーがいきなり上に上がってきて下を見下ろし立場が逆転する。また別の瞬間には二人の男性パフォーマーがスマートフォンを片手にお互いの首を撫でる。やがて鑑賞者もパフォーマーも考えや感情は麻痺し鈍感になっていく。

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彼らは全ての暴力、情熱、生のセクシャリティの中で青春を体現している。社会のこの瞬間に青春は無制限に引き伸ばされ、後期資本主義、ポストインターネット、一定のソーシャルメディアは一定のユーザーが生成した生産と消費の新しい流れを繰り返す事を強制する。鑑賞者の輪が出来たパフォーマーの一人であるマハールは胸を張って両腕を広げて鑑賞者に突進する。それはまるで戦いを始める前の彼の身体が「来い!」「何が欲しい??」と世の中に訴えかけるようにも読み取れる。しかしこの動きは格闘技に特化した攻撃でもあり、同時に十字架のように全てを受け入れている状態とも言える。

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パフォーマーたちを「若くて美しい」「可哀想な世代」「ヒップスター」という曖昧で茫然とした言葉に分類する事も可能だが、もっと引いた目で見ると彼らも何百万もの共生種、歴史、生態系の一部なのだ。
イムホフの作品は、自己と他者、人間と機械、現実と虚構という複雑に絡み合った非規範的な政治や世の中に対して、身体のゾンビ化を気付かぬうちに受け入れている私たちを表しているのだろうか。私たちが握っている拳は根本的に崩壊しているのかもしれない。



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