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おいしさ、の共通項とは?

先日仕事上のお付き合いで訪れたリストランテで食事をした際に感じた、心のなかにある違和感の正体をずっと探っていました。そのリストランテ自体は、長年多くの人に支持されており、味もサービスも素晴らしく、繊細で多彩なコース料理はとてもおいしいものでした。ただ、同僚と共有する「おいしさ」というごく個人的な感覚について、モヤモヤとしたものが心に残りました。

今回は「一流の味を知っておくべき」という上司の心遣いから連れてきていただいた、またとない機会。プライベートで訪れるのとは異なり、「これを一流の味と認識せよ」というミッションが与えられていました。おいしいものを食べれるのは嬉しいけれど、内心では、「おいしさ」を上から押し付けられている気がして、違和感を感じ始めていました。

さて、たしかにこのリストランテの味はとても美味しかった! しかし、この味を一流と認識したとして、この「おいしい」という感覚を日常で体感していないかというと、そうではないな、と感じました。この一流リストランテで味わう料理が「おいしさの絶対的基準」ではない、そんな思いが浮かんできました。

たとえば、朝の静けさの中で飲む出来立てのチャイ、炊き立ての白米とお味噌汁、とれたてを塩茹でした枝豆、よく熟れたスイカ、、、 四季折々で日常的にたべるものであっても、心の底からおいしいと感じる食事はあるように思います。高級なお料理と、この日常的なおいしさに、優劣や上下はないように思うのです。そして、おいしい、と感じる食事には何かしら共通項が見出せるのではないか、そんなふうに感じました。

【おいしい食事の共通項】

1. できたて、とれたて、新鮮であること

これは、できるだけ「◯◯たて」であるということです。とれたての新鮮な食材を、適切に調理して、できたてをいただくのが一番、ということになろうかと思いますが、それが難しくて、すこし時間の経ってしまった食材でも、適切な調理をし直せば再びおいしさを取り戻す可能性はありますし、逆にどんなに新鮮で素晴らしい食材でも、保存方法が適切でなければ、おいしさを失ってしまいます。できる限りの◯◯たてを生み出すことは、おいしさの秘訣となるように思います。

2. 食材にできるだけ触らないこと

知り合いのシェフが、鮭の切り身をフライパンでソテーするところを見ていました。フライパンに食材をおいたら、7、8割焼けるまで食材には一切触りません。料理の上手な人は、手際がよいともいいますが、食材に余計な手を加えない、ということも言える思います。良い食材を、良い食材の状態を維持したまま、余計な手順を加えずテーブルに届けることができるということです。

3. 食事する空間が整っていること

これは、ゴージャスだったり、ハイセンスだったり、という意味ではなく、シンプルに清潔であること、といえるかと思います。食事に集中できる適切な空間、設え、を意味しています。

食べる側のコンデションや体質も影響すると思いますが、上記3つの条件が揃っていれば、料理はおいしくなる確率が高くなるのではないか、今はそんなふうに考察しています。

食事とは、何をたべるかだけでなく、どう食べるかがより大事である。アーユルヴェーダの教えのなかで、よく耳にする言葉です。食材が作られる過程から、口にいれて消化するまで、その食材がどんなふうに扱われたか。おいしさ、とは単なる味覚ではなく、食材のエネルギーの高さや純粋さを意味する言葉ではないか。アーユルヴェーダでいうところの、サットヴァ(純粋性)が、おいしい、の条件にあたるのではないでしょうか。

どの生きものも、食事によって、植物や動物から生命エネルギーをいただいて、みずからの生命を維持しています。おいしいと感じるのは、何をたべるにせよ、その食材のエネルギーを感謝とともに、できるだけ純粋な形で身体に取り込んだときに感じるものなのではないかと感じています。

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