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先生になってから・一年目

先生になった経緯は前にFacebookに書いたものをコピペしましたので、その続編です。(文中に登場する人名は今勝手に名付けたモノです)

大学卒業後、非常勤講師としてH中学校に赴任し、僕の社会人生活がスタートしました。たまたま大学の同級生が正採用で赴任しており、少しは気楽でした。

今思い返しても一年目にH中学校に赴任できたことは大きな財産で、その後の教員生活に多大な影響を受けました。特に、当時55歳の体育教師、ゴリ先生に出会えたことはその後の人生においても素晴らしい出会いでした。その他にもノリ先生、ヨチコ先生、イナミン先生など、たくさんの人が優しくしてくれて、本当に本当に楽しい1年間でした。

ゴリ先生とは公私共にお世話になっていきます。ゴリ先生は50歳からサーフィンを始めたという行動も見た目もすごいカッコいい人で、先生としては体罰当たり前の時代にその通りバリバリの武闘派でやっていたにも関わらず、僕の知る限りどの生徒からも愛されてました。

僕がH中学校に赴任した頃はまだ今ほど教育が息苦しくなく、おそらくゴリ先生はどこかで暴れていたはずです笑。でも、結局人間力というか、ゴリ先生に殴られるなら仕方ないって思わせる人だったと思います。僕が気づかなかっただけかも知れませんが、特別に最先端な指導法をしているわけでもなく、校則に厳しいわけでもなく(むしろ校則には甘いと他のベテランから言われるぐらい)、ただゴリ先生自身の考えと感覚で先生の仕事をしていたように思見えました。授業がない空き時間に職員室のソファで横になって昼寝したり、当時は校内分煙だったので職員室の運動場側の出口でタバコ吸ってても生徒が集まってきたり、僕が一年目だったこともあったのか全てがカッコよく見えました。前に「なんとなく先生になった」と言っていた僕が、こんな先生になりたいと思った最初のモデルです。校則に適当だし、コンピューター使う仕事とか細かい事に関しては、職員室(大人の中)では一番子供なのに、授業も部活も生徒に混じっていて、ご本人曰く「学校は遊びに行ってる」というまんまを体現してました。

学校は遊び。一年目の僕はその考え方に憧れて実際そうしようと行動していました。体育大会のハーフタイムショーで踊ったり、3年生を送る会で勝手に踊ったり。授業中に念頭にあったのは生徒を笑顔にすること。数学の内容よりもウケ狙いに走っていたと言っても過言ではないぐらいに。当時は若者だったし、非常勤講師という責任がない立場だったため、そんな変な頑張り方でもたくさんの人が褒めてくれて助けてくれました。おかげさまで自信と安心感に支えられてのびのびと自分の思う通りに働けてた気がします。でも悪く言えば、実力もないのに好きなことだけやっていい気になってた部分もあります。マネしてソファで寝てみたら苦言を呈されたこともありました(当たり前だ笑)。

当然、この後の数年間で社会の厳しさを知り、自分を変える苦しみにハマり、それでも少しずつ大人になっていくという感動のストーリー展開がありますが、それはまた後日。

H中学校で働いていた7月に教員採用試験があり、そこに向けて勉強や小論文・面接の準備をしていました。そのため、1学期は基本的に自分の授業が終わったら帰宅してました。おそらくですが、4月の飲み会から、飲み会だけはフル参戦していて、そこで頑張った(尾崎豊をクネクネしながら熱唱してただけですが)ためなのか、1学期でもすでにたくさんの方が応援してくれる幸せな状況でした。

そして迎えた採用試験。手応え的にはイマイチでしたが、何故か合格。ノリ先生やゴリ先生はじめ有志の方でお祝いの会を開いてくれてメッセージのお手紙をくれたりしました。結果論かも知れませんが、今でも、学力的な手応えなんかより、自分なりに努力したことを神様が見てくれていて、周りの人たちが応援してくれているという状況になれば白紙で出しても奇跡が起こって合格するんじゃないかなぁって思います笑。

二学期からは試験の準備もなくなり、今後の教員人生のために、と授業以外の場面にも関わらせてもらいました。非公式な存在なので、行事の細案などに僕の名前が載ることはNGだったのですが、若い先輩が手書きで書き加えてくれたりして仲間に入れてくれようとしたことがとても嬉しかった記憶があります。

部活動では野球部の赤鬼みたいな先生(赤鬼先生)のもとで色々面倒見てもらいました。僕自身は大学でソフトボール部でしたが、ピッチャーしかやっていなかったため、打つ・捕る・走る・上投げは素人でした。ちなみにソフトボールと野球は想像以上に似て非なる種目だということをこの時知りました。赤鬼先生はゴリ先生とは違ったタイプで、校則や風紀を重んじて、野球部にもその影響が濃く出ており、いわゆるビシッとしたやり方をしていました。厳しい部活というものにほとんど縁がなかった僕にとって、その練習のやり方は大きな経験になりました。

ゴリ先生と赤鬼先生はある意味真逆なアプローチと言えるのですが、当時の僕は吸収力の塊だったため、どっちもすごい(何なら誰が見てもわかりやすい分、赤鬼先生の方が学校現場としてはオーソドックスかも)と素直に吸収しました。年齢の差があったからかも知れませんが、ゴリ先生と赤鬼先生の関係性も良く、良い職場だったと感じます。


そんなこんなで一年が終わる頃。ゴリ先生から「敦もサーフィンやるか?」と声をかけてもらいました。見たこともやったこともないのでとりあえず「じゃあ一回見学します」と言い、ゴリ先生と、そのゴリ先生にサーフィンを教えたカッチー先生(F中学校の体育の先生。当時43歳。のちに重要人物になるとはこの時は知らず…)と3人で海に行きました。

海水浴以外で海に行くことはなかったし、そもそも外海と内海で波の違いがあることも知らなかったので、こんなに広い砂浜とでかい波とたくさんのサーファーがいることに驚きました。そもそも海に興味があったわけでもなく、なんとなくゴリ先生についてきただけなので、次回はゴリ先生たちに道具を借りて体験してからどうするか決めようと思ってました。

ところがその見学の翌週。

ゴリ先生「おい、敦。五万円持ってこい。」

敦「?」

ゴリ先生「カッチー君にお願いして、(サーフィンの)板買っといた。ここにあるから。」

と言う急展開でH中学校の倉庫にロングボードが入ってました。当然ビックリですが、どうせやるかやらないかでグズグズしてたと思うと悪くなかったし、それよりもゴリ先生とカッチー先生が僕のためにすぐに行動してくれたことが嬉しかったです。


そして4月、僕は正採用としてK中学校に赴任しました。



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