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先生になってから・1校目ラスト

K中学校で二回り目の一年生。その世代は入学前の6年生の頃から評判の中心ヤンキーが4人いましたが、その中の2人は、保護者からプレゼントされた単ランボンタンで入学式に参加しました。残りの2人のうち、腕力的にも一番強い男「ゴリ助(仮名)」が実質的にはボスでした。

ゴリ助は僕のクラスで、他の3人もバラバラのクラスで新学期がスタート。僕はこの年も学校全体の生徒指導主事、クマ先生はこの学年の生徒指導担当という、立場が逆なんじゃないか、という形でしたが、クマ先生が直接ヤンキーたちの保護者と関わる場面が多かったこともあり、ある意味この形が正解だったと思います。

4人以外の生徒たちは、少しでも調子に乗った言動をすると4人組にシメられるためとても落ち着いて生活していました。他の学年にいたら一軍レベルの奴も、この世代では強制的に二軍に落とされ、運良く(?)4人組軍団に入れてもらえることもえれば、何をしたかはわかりませんが突然破門を言い渡されたりと、彼らは彼らの世界の中で厳しく生活をしていたようです。

我々は基本的にはこの4人組に時間や労力を集中して働けば、ある程度のメドが立つというところが最強世代との大きな違いです。最強世代は広範囲にわたって大変、4人組世代はピンポイントですが大変さが別次元、というイメージでしょうか。もちろん、本来は真面目にやってる子たちにエネルギーを注ぐのが筋だとは思いますが、そんなこと言ってられない状況だったことをご理解いただきたいです。

入学式後はいきなり毎日が戦いでした。服装どころか、教室に入らない、廊下で音楽流す、校舎裏やら体育館裏に言ってはタバコ吸う。喫煙などの触法行為は親に連絡して下校させるというルールがあり、明らかにそこらじゅうがタバコ臭いのに吸ってないと言い張る、正直に言うように促すとツバを吐きかけられる、話をしている最中に移動するので仕方なく付いていくと「ストーカーがいるので助けてくださーい」と110番通報したり。別の日には2・3年生のフロアでタバコ吸って逃げ回り、学校中が授業にならなかったので緊急一斉下校をしたこともありました。入学直後の一年生に対する措置としては、今考えてもなかなかの決断だったと思います。

なんとかしようと家庭に協力を仰ごうにも、単ランとボンタンを買い与えるような保護者だったのでなかなか普通の話が通じませんでした。クマ先生が何度も家庭訪問をし、脅迫めいた言動にも負けず、少しずつ少しずつ関係性を結び、結果的にはヤンキー本人が少しずつこちらを信頼してくれるようになりました。

ゴリ助は4月当初は様子探りもあったのか、本性を出さずに比較的静かに過ごしていました。

ところが、ある日変なイチャモンをつけてキレまくります。新卒の男の先生が、ゴリ助が小学校から付き合ってた彼女のパンツを見たとか見てないとかで、突進していくのです。もちろん、見てないと否定したし、何ならスカートがかなり短いので不可抗力的に目に入ったかもしれませんが、それなら彼女に注意すればいいのに、頭に血が上ったゴリ助は完全に暴走モード。184㌢ある僕ともう一人で二人がかりで止めに入ったのにお構いなしに突き進みます。3人目が到着してようやく突進は止まりましたが、口汚く我々を罵っていた姿はまさにビーストモードでした。おそらくラグビー部に入って真面目にやってたら日本代表になってたと思います。(ちなみにめちゃくちゃ足も速い)

こういうトラブルが起きるたびに家庭訪問をして直接保護者に伝えるようにしていました。ゴリ助はお父さんのことは怖いらしく、また、お父さんは話を分かってもらえる方だったので、とても助かりました。やがて、特に話がない日でも、ゴリ助の家に家庭訪問して、僕とゴリ助とお母さんとペットの犬でまったりしたりしているうちに少しずつ仲良くなりました。

一学期は毎日がこんな感じで(二学期以降もまあまあ似たようなものでしたが…)、ここだけ切り取ると最強世代よりもハードに見えますが、4月の第一印象が酷かった分、ちょっとした平和な一日がとても嬉しく感じました。また、ヤンキーあるあるなのかもしれませんが、なんだかんだ言ってもどこかで情に厚い一面もあり、我々が手をかけても何一つ伝わらないという不毛な日々ではなく、手をかけた分だけ何かしら返ってくるような気がしました。ここが最強世代との1番の違いだと思います。

話の流れで9月頃にゴリ助ともう一人のヤンキーをサーフィンに連れて行くことになりました。当時はH中学校のゴリ先生とカッチー先生と3人で海に行っていたのですが、お二人にお願いして5人で行きました。ボードやウェットスーツもゴリ先生に用意してもらいました。

昼飯に入った中華料理屋で飯を食わせた後、彼らはコソコソと店の裏に行きました。4月なら校舎裏で堂々と吸って、しかも吸ってないと嘘を言い張っていたのと比べると、この日の彼らは何と筋の通ったことかと感動すらしました。こんなコソコソ行動ですら、「連れて来てもらってるから迷惑はかけまい」という彼らなりの気遣いに成長を感じて、可愛く思えてしまうのも変な話でしょうか。

そんなこんなで日常生活的には大きく変わってはいないですが、肝心な部分では歩み寄ってくれる場面も増えて、三学期頃からは我々も精神的にも肉体的にもだいぶ楽に感じるようになりました。(ハチャメチャなのに慣れてしまっていただけかもしれませんが)

とはいえ、緊急一斉下校の頃ほどの激しさではないだけで、4人組が普通に授業に入ることはまずなく、相談室で先生が面倒を見るというのが日常でした。空腹だと機嫌が悪いのでコンビニのおにぎりを食べさせてたりして過ごしました。ゴリ助はたまに気が向くと教室へ寝に行き、長い時は授業後も寝続け、夕方の6時頃まで床で寝ていたこともありました。

2年生に上がるときに学年主任やクマ先生や女性の中心だった先生が転勤し、新しいメンツでこの大変な学年を受け持つことになりました。しかし、この新たなメンバーは皆さん実力者で、大変な日々ながらも、楽しく働けました。新しい人間をすぐに敵と見なす奴らに対しても、割と早い段階で信頼関係を気づいていました。

ちなみに一年生から持ち上がったのは僕とお母さん先生と新卒の男女各1人と副担任系のおじさん先生だけでしたが、みんな素敵な人ばかりで、特に色々テンパって苦しかったときにお母さん先生から言われた言葉「人を責めてはいけない。自分を責めてはいけない」は今でも僕の座右の銘ランキングベスト5には入ってます。

2年生にもなると、多少は義理と人情に加えて分別らしきものも成長してきて、自分たちの好き勝手はやるれど、多少は周りに配慮する感じになりました。そういう点では、これまで1.5軍だった奴らが少しだけ元気になってきても、「俺らが楽しければいいや」的な雰囲気で、ある意味面倒なケースが増えました。

我々が飲み会してるときに1.5軍のワルたちから被害を受けたと言う連絡が入り、普通だったら翌日指導するのですが、なぜかその日は勢いでそいつの家まで行き、酔った勢いで怒り散らかすと言う、今では考えられないことをしたことも甘酸っぱい思い出です。

この他にも細かな出来事はたくさんありましたが、良いことも悪いことも全部ひっくるめて思い出してみると、楽しかった記憶の方が勝るのは、4人組を筆頭にかわいい生徒たちだったからだと思います。

なお、僕はこの年で転勤になり、彼らの卒業式には参加できませんでした。心残りではありましたが、こういう終わり方もまた粋なのかなと最近は思うようにしています。





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