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結果発表

先日、自分が書いたカレンダーに値段をつけて「欲しい人ー?」ってFacebookに投稿した。軽い気持ちで実験感覚でやってみた結果を発表します。

今回の書活動では、生まれて初めて自分の力でお金を手に入れるって言う感覚になった。時間を切り売りするのではなく、自分に値段をつけるような感覚。


今の仕事でその感覚は感じたことあるのかと聞かれたらナイと答える。そこに仕事への向き合い方への悩みが隠れているような気がする。


学生時代のバイトは当然時給。時が過ぎるまで調理でも皿洗いでも家庭教師でも「与えられたこと」をやってればお金が手に入る。
今の仕事はどうだろう?


出勤時間から退勤時間まで授業したり、トラブルが起きて話し合いをさせたり、進路の書類作ったり、そんなことしていればお金が手に入る。というレベルだったのかも知れないと恐ろしくなってくる。


仕事って何だ?お金を稼ぐこと。世の中のため、誰かのためになること。結果として感謝の形でお金がもらえること。


それがいつの間にか「与えられた時間、与えられたことをして過ごしていれば決められたお金がもらえること」になってしまっている。
だから「我慢して過ごす」みたいな働き方が当たり前に感じるんだろう。

今回の書については、全く強要されずに書いていた。キッカケは卒業式で黒板に書いた絵を褒められたこと。「喜ぶ人がいるなら書いてみよう」っていう純粋な動機。そこにはお金も時間もない。かと言って「書くこと」が大好きかと言われたらそこまででもない。


僕の書を見て喜んでくれる人がいることが嬉しい。喜ぶというより笑うに近いかも知れない。誰かの喜びや笑いを得る手段として書を使っている感じ。

新卒の頃、非常勤講師をしていた時、管理職の先生に採用試験のための小論文を見てもらった。テーマは忘れたが「生徒を笑わせたい(笑顔にしたいという意味)」と書いたら「笑わせたいと言うなら、それはお笑い芸人じゃないかなぁ」と優しくご指摘いただいた。その管理職の先生に意地悪な意図はなく、言葉尻の問題だとは思ったが、「笑わせたい」気持ちは今でも自分の根底にあるような気はする。

笑わせたい。何でやねん。
なんで笑わせるのが好きなんだろう。
笑わせたい奴なのに、そうじゃないことしてる時はやっぱり疲れる。生活指導の先生のフリして怒ったり、数学の先生のフリして授業したり。

まぁ、それが仕事だと言っちゃあおしまいなんでしょうが…😔


さて、書の話に戻します。
なんて言うんだろう…書くことは純粋に楽しいだけだったし、それを切手代で送るのも清々しい行動だった。でも今回の「カレンダーに値段をつける」という作業がとても苦しかった。


カレンダーの相場も自分の書の価値も何もわからない中での金額設定。
最初は一枚100円にした。でも10秒後に「いやいや、こんなモンに100円は高いだろ」と50円にした。12枚セットで500円。
50円が適正かどうかもわからない。
その後照れ隠しも含めて「ビール奢りで無料」と追加した。
その作業は、自分に(正確には自分の書に)値段をつけてるみたいで怖かった。

お金を得ることが目的じゃないという逃げ道のおかげで「10円でもいい」とか「50円で売れなくてもいい」とか無責任でいられ、気持ちは軽くなった。「軽い気持ちでやってるのだからこういう考え方でいい」と思う自分と、「とは言え作品を売るという行動に責任(自己評価を受け入れることも含めて)を負うべきだ」という自分がいて悩んだ。


逃げ道があることが正解なのか不正解なのか。
どっちも正解だと言いたいが、目的によるのかな。

ある人は言うかもしれない。
「そんな適当な気持ちで売ったなら、お金を出してくれた人に対して失礼だ」と。


また別のある人は言うかもしれない。
「作者が自信を持って値段をつけて、客がその値段で買いたくなるまで己のレベルを上げるべきだ」と。


またまた別のある人は言うかもしれない。
「ここでの実験を経て得られたデータから、さらに良い作品・売り方ができるはず」と。

すぐに書でマネタイズするつもりはないし、そもそも喜びと笑いのためにやってることなので、今のところは「三度の飯より好きって言うほどの熱意はない趣味」と言ったところか。
とは言え趣味ができて嬉しい😊

そして数日経った今。
想像以上の方がお金を払っくれた。中には5000円という謎の金額をぶち込んでくれた人もいた。
嘘みたいだが、お金が増えて嬉しいという気持ちは全然無かった。


マジで「こんなにも味方してくれる人がいるんだ」ってことが心をポカポカにした。
自分にこんなにも価値があるんだって言ってもらえてる気がした。

でもそこで少し考える。
今は遊びでやってるだけで、お金に執着しないからこんなこと言えるだけだ。コレで本気で生計を立てようとしている人はこんな気持ちになる余裕あるのかなぁって。


どんな状況でも心のポカポカだけで生きていける人はホンモノのすごい人なんだろうなぁって。


システム的な話。
こうして得られたお金の一部をこじりょーという人のクラファンに入れた。
すると当然こじりょーから感謝されるし、周りからも素敵って言われる。


僕は誰かを笑わすのが好きで、そのために変な絵を書いただけ。そしたらお金が貰えた。そのお金でこじりょーが幸せになった。僕の株も上がった。新しい書画グッズを買った。


すごいのはこのサイクルの中で誰一人損してないということ。我慢や負担もない(強いて言えばそれぞれの財布から500円が消えたこと。もう大人だし、ここはまぁ…😌)。


僕にお金を払ってくれた人の中に、すでにこじりょーのクラファンを支援してた人もいたと思う。だからその人は、僕を通じてこじりょーに二回支援したことになる。ついでに僕を幸せにしている。

これまでもクラファンとか寄付とか「やった方がいいなぁ」「善人になりたいしなぁ」って思ってチョコチョコとはやっていた。

そして今は新たな見方が生まれた。
今までのやり方だと自分と支援される人だけの一方通行・単線の支援で、こちらの余裕や感動が失われたらそこでストップするような設計だった。それが悪いことではないし、そういう形だとしても、頑張ってる人を高みに上げるのは大事なことだ。


でも、今回の僕の書画みたいに、自分も支援される行動をすることで、より多くの人とお金を巡らせながら支援できるんじゃないかと感じた。
つまり、誰かを支援するためには自分が支援されるような人になる、という取り組み方も素敵だなぁと。



そしてとにかく今言える成果としては…

とにかく実際にやってみたからこそ見えること、感じることがめちゃくちゃあったということ。


直接ビジネスに繋がらなくても、この経験を咀嚼して生徒に伝えられるという活かし方ができる環境にいること。


僕のことを応援してくれてる人がたくさんいること。


実際に何かを生んでお金を稼いでいる人たちのプレッシャーをほんの少しだけ体験できたこと。

何もしなかったら絶対に分からなかったと思うので、得られた金額以上に価値のある行動だったと思います‼️

買ってくれた方々、興味を持ってくれた方々、面白がってくれた方々、笑ってくれた方々…

ありがとうございました😊

書画はしばらく続けたいと思ってます🖌

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