【2023.07.08土】「近年は弱さを見せられるようになった」と思い込んでいた自分は、果たして「無防備」にはなれているのだろうか
教えてもらったナスとトマトの豚バラ挟み蒸し、初めてつくったけどとても美味しかった。しかもすごく簡単。
まさか自分がレシピを書く日がくるとは……もう料理がない人生なんて考えられないくらい、この1年で好きになってしまった。
今日は原稿編集と筋トレも。『ラテに感謝!』を読み終え、選書相手から教えてもらった『正欲』がすごく気になったので、70ページほど読んでみた。
「認められる多様性なんて、しょせん自分が想像できる範囲だけ」
という非常に考えさせられる紹介をしてもらい、そのテーマの片鱗が見え始めてドキドキしている。
さて、昨日のナウシカ。
人を死に至らしめる有毒の瘴気を放つ森(腐海)が、実は人間たちが汚してきた土を浄化しており、獰猛に人を襲うこともある虫たちがその森を守っていた、という壮大な世界観。これには何度観てもため息が出るほど感動する。
今回はそれに加えて、ナウシカ自身のあり方に感ずるものがあった。
威嚇するテト(キツネリス)との出会いでは、わざわざ手袋を外して近づき、噛まれるがままに任せる。
腐海に墜落していく飛行機のなかで生存を諦めてしまっている谷の老人たちに、極濃の瘴気のなかであえてマスクを外して笑って見せる。
王蟲たちに囲まれ警戒するクシャナの銃を自分のほうに向け、王蟲の触手に無抵抗に委ねる。
そのどの行動も「無防備」だった。
「攻」でも「守」でもない。自身の危うい姿を晒して待ち、結果的に自然と相手の行動を促したり制したりする。
無為の為というのか。
そしてナウシカがそういう無防備を見せるときは、たいてい相手の行動の背景にある「怯え」を見抜いている。
噛み付いたあとに懐いたテトには「怯えていただけだよね」と言い、銃を発砲するクシャナには「あなたは何に怯えているの?」と問う。
ナウシカが見せる無防備の最たる姿が、ストーリーの終盤、押し寄せる王蟲の群れの前に降り立つシーン。
あのときのナウシカも、怒れる王蟲の背後に「怯え」を捉えていたのだろうか。
作者たちの真意はわからない。けれど、僕はこの「怯える相手への無防備」というあり方に、何か大きなものを感じている。
近年いくつかの翻訳書で、「自分をvulnerableな状態に置く」ことの価値を説く記述に出会う。そのなかで「弱さを見せる」という訳に出会うこともあった。
けれど、単に「自分が持っている弱い部分を曝け出す」というのとは、少なくともナウシカが見せた姿勢は違いそう。そうじゃなくて、やっぱり「無防備」なんだと思う。difencelessというか。
そんなことを考えていたら、「近年は弱さを見せられるようになった」と思い込んでいた自分は、果たして「無防備」にはなれているのだろうか、と思った。
結局のところ先回りで考えすぎてガチガチに防御を固めているようなときがあるし、それでいて相手と打ち解けるせめてもの手段として「見せられる範囲の自分の弱い部分」を先出ししてるだけなんじゃないか。
「仲間とつくる現実は、自分の理想を超えていく」
これは会社で大事にしているフレーズ。「理想を超える現実を仲間とつくる」ために、たぶんいまの僕の場合、「無防備になる」ことがひとつのカギなんじゃないかという直感がきた。「弱さを見せる」を超えて。
勝手に飛躍しまくったけど、久しぶりに観れて大感謝。漫画版も読み返そう。
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