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【小説】あんなに月が綺麗なのに今夜は月が出てない #風景画杯優勝作品

 あこさんは階下でリモート授業中だ。小川は彼女の気が散らないように2階にいて、先日、突然亡くなってしまった劇作家からのDMに返信していた。半年も前のtwitterメッセージを放置したまま訃報を聞いてしまったのだ。顔見知りではない。何度か観劇して作品が好きだったからフォローした。DMは演劇公演案内の一斉メールに違いない。でも万一、スルーしてがっかりさせてたらと思うと悔やまれた。熱い文面で、いい人っぽかった。ありがとうございました、と書いて、半ば諦めにも似た気持ちで「送信」を押す。指の感触は買い物する時の「ぽちっ」と同じだった。でも押す瞬間ちらっと本人に届くような気もした。



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 二人が一緒に暮らしはじめて10年になる。年上のあこさんが小川を娘として迎えて養子縁組をすれば、という、家族になるためのゲームじみた策も、話題に出ないこともなかったけれど、そうやってがんばるのも面倒な気がしてきて頓挫したままだった。

 数年前に長屋の隣家を買った。引越してくるずいぶん前から空き家だった。壁が剥がれ軒先は崩れ、とうとう競売にかけられた。ある日のこと、玄関ベルが鳴り、地元の不動産屋の老会長が、棚からぼた餅のように落ちてきた。「お隣を買いなさい。千載一遇のチャンスです」。小川は、とりあえず「せんさいいちぐう」をググった。そしてなんと、そのぼた餅は、無利子無期限で150万円を貸してくれたのだ。作り話だと思うのは自由だが、本当の話だった。


 家屋は壊さず、D.I.Yと友人頼みで1年がかりでなんとか改装した。半信半疑で始めた、ひと部屋だけのゲストハウスに、ネットの予約サイトからは強者の旅人たちがやって来た。
 

 ロンドンの豆腐屋で働くコミュニティラジオDJ、オンライン・ポーカーで暮らすデンマーク人、「近くにジムはあるかい?」と真っ先に聞いてきた黒人のブロガー、「僕は船の上で産まれたんだ」とタスマニア島から来た青年は言った。
 
 気が向けば一緒にビールを飲んだ。みんなジブリがめちゃくちゃ好きだった。いい加減な英語で喋った。忙しそうなら放っておいた。たのしかった。



 季節は急に終わる。



「日本人はなぜそんなにマスクが好きなんだ?」と、マシューが不思議そうに聞き、小川が、意気揚々と「everyone has allergies!」と答えたのは、古き良きあの頃、2019年、去年の秋のことだ。





 誰かと一緒に住んでおもしろいのは、自分ではまず買わないような本がソファの上にあることだ、と小川は思う。世界的ベストセラー。ハードカバーの上下巻。難解なのに気がつくと最後まで読んでいるという魔性にかかったが、読み終わるとさっぱりわからなかった。「彼らは、人工的な本能を生み出し、そのおかげで彫大な数の見ず知らずの人間同士が効果的に協力できるようになった。この人工的な本能のネットワークのことを「文化」という」
 人工甘味料たっぷりの甘ったるいコーヒー牛乳の海で、文化のワラを2~3本つかんで、いかだに乗ってぽっかり浮かんだ。

 クックパッドも見飽きて「世界の料理」と、検索してみる。トーゴ。どこだ。家にはピーナツオイルもピーナツバターもトマトピューレもない。自転車で7分行けば「やまや」の棚にはあるだろう。先週からは、3時間早く閉店するけれど、今から行けばまだ間に合う。
 
 そういえば唐辛子を切らしていた。
「きゅうりと間違えて青唐辛子を噛んだら口の中が地獄でした」とチャーちゃんが言った時、なんとなく「地獄」は漢字で言った気がしたな、と、小川は思い出している。ぽつんと落ちてきた雨粒を訳もなくびよんと引き伸ばすように。




 毎日を丁寧に暮らせ、という。




「政治家は 勝手にルールを変えて いいんですか?」と、twitterデモに参加した。教室の隅の子どもみたいに、こっそり手をあげた。「はい。戦争が終わったとき、僕らは教科書に墨を塗りました」その日の深夜、テレビの中から養老先生に即答された。


「我が家のルール。ある程度、氷が置かれたら、どちらからともなく作業をやめ、思い思いの格好で、立つなり座るなり寝転ぶなり、じっと氷が溶けるのを待ちます。その間、ひっきりなしに何かを考えていないといけません。何でもかまいませんが、できたら、今、目の前にあることがいいです。氷がなかなか溶けないなぁとか、椅子だなぁとか。瞑想は禁止。むしろ雑念が必要です。氷が溶けたら、しばらく休んでください」

 

 最近の小川は、いろいろと変な夢をみる。今朝は「あんなに月が綺麗なのに今夜は月が出てない」という台詞を、何度も何度もi-phoneのボイスメモに録音しながら目が覚めた。



 家から出ないでくださいね。ブラジルのファベーラのことは知っていますか。南アフリカのタウンシップのことはどうですか。いえ。しりません。すみません。感謝しています。本当です。ところでエアコンは24時間運転し続けたほうが電気代も安いし環境にもいいって説は正しいですか。アマニ油は、どれだけ摂っても身体にいいんでしょうか。今日は朝から、石油会社について考えました。わたしたちは、風や太陽や木屑や生ゴミから電気を作っています。地球の未来のために歩み続けます。そういう文章を書きました。こういうときにはやはり韻を踏むべきでしょうか。締め切りを守ってデータを送りました。



 
おおむね幸運だ。仕事仲間はいい人ばかりだし、慣れている。目的は決まっているから、その方向へ向かってしばらく集中する。終わったら、ぱっと忘れた。その、ぱっと忘れたところが、台本を読むのにちょうどの、都合のいい場所だった。

 最初はそれくらいの距離感だったけれど、そのうちいくつかの思いがけない出会いがあって、そして、いろいろあって、いろいろあって、小川は、年に何度か小さな演劇の舞台にたっている。


 旅人が来なくなったゲストハウスは、落ち着いたら近所のマダムたちの集まるヨガ教室にレンタルしようと思う。あこさんと小川の、何種類かの仕事が組み合わさって、生活はぎりぎりバランスを保っていた。

 丁寧な、ぎりぎり。





4ヵ月ぶりに実家に帰ると、小さな庭がすっきり手入れされていた。すっかり足腰が弱くなり、草抜きも剪定もしんどくなった父親は、シルバー人材センターからやって来た80代の植木屋の仕事ぶりを「立派なもんだ」と何度も繰り返し褒めた。それから、春に大きくピンク色に咲いたという椿の花の名前の由来について詳細に説明し始める。
 娘に「おがわ」なんてかわった名前をつけたのは父親だ。おかげさまで小学生の時には「なまえがみょうじ〜 なまえがみょうじ〜」と散々からかわれた。
 モンゴルの王様に嫁いだ中国の悲劇のお姫様の名前オウショウクン。オウショウ、何? オウショウ、クン。田中クン、山田クンの、クンだ。オウは王様の王、ショウは昭和の昭。いやまてよ、照る、だったかもしれないな。
 妹は、うつらうつらと眠り始める。母親は、着なくなった浴衣をほどいて夏のブラウスを作ったらどうか、いやそれはあまりに和風過ぎるだろうかと椿の話をさえぎる。
 
 お昼ごはん時に集まって、4人で近所のホテルのレストランからデリバリーした中華ランチを食べた。高い方のじゃないと配達してくれないのよと、そのお高い値段を取り返すかのように、これは四川風だ広東風だ、白いのはアワビか、なんだエリンギじゃないの、チャーハンはなかなか上手にパラパラしているわねだとか、食べる間がないほど、やいやい騒いだあげく、食べる時は黙って食べて、食べ終わってからマスクをして話せだなんてそんなことはできるわけないのよねと、笑い合う。いつまでも結婚しようともしない中年の娘2人と母親はやかましく、父親は寡黙で、すっかり橋田壽賀子ドラマの食卓のようだがドラマは何も起こらない。いや起こっている。家族は今、歴史的な疫病の流行から逃れているところなのだ。
 


 妹は市内のマンションで一人暮らしをしている。会社へは隔日出社で、あとは自宅待機。すれすれの休業手当が出るらしい。「がら~んとしたレストラン街でさ、カラスが血眼でゴミ袋を探し回ってるの。だっていつものところにゴミ袋ないんだから。カーカー、カーカーって叫びながら。こわいよ~。かわいそうとか、そういう様相じゃないし。最近いなくなったけど、どこに移動したかな」

 帰り際、母親が「あこさんに、よろしくねぇ」と手を振った。





もしも。気まぐれで見ず知らずの男の子供を産んだとしても、あこさんは一緒に育ててくれる気がする、と、小川は思っている。出産は、単なるイメージだった。分娩台に脚をのせてゆっくり息を吐いている。全然痛みはなかった。
 もしも、初恋の相手が女の子じゃなかったら? もしも、ずっとピアノを習い続けていたら? もしも、アルプスの山の麓に生まれていたら? 全部、同じくらいの、もしも。
「どの道を行ってもどこかへ行く」
。名言だ。ゲストハウスに2ヵ月間滞在して行ったキタさんのオリジナル曲のタイトルだけれど、未来へ継いでいくべき言葉じゃないか。




 そうだなー。どっか外国に住んでみたかったかな。で、同じなんだよ、きっと。独り言言うんだ。部屋の中でパソコンに向かって 笑 いつか住めるかなあ。どこに住みたいんですか、小川さんは。どこにしよう。今からだと失敗はしたくないし、あと方向音痴だし。小学校の初めての登校で自分の教室がわからなくなった。それは国とは関係ないでしょう。私は暑い国がいいです。え、あこさん、そうなの。南の島だなんて意外だな。似合わなさそう一年中長袖着てるくせにさ。「いつでもできる」と思っていた。そう思っていた。
 


 今夜は昔話が面白い人と話がしたい。ほら、いつだったか3人でご飯を食べた、あの音楽の先生を呼んでください。YMOと同じ会社から同じ日にデビューしたのに全く売れなかったプログレバンドのドラムボーカルだったおじいさんの話が聞きたい。何度も聞いたことのある同じ話をもっと何度も聞かせてください。





毎日を丁寧に。






雨の日には、右の横髪がはねていらっとする。エアコンが効いた部屋から出入りするたびに気温が変わって咳が出る。熱。36.4度。さっき階段を上がっている時、右太腿の前面の一点が、ぽっと一瞬マッチを擦ったみたいに熱くなってすぐに消えた。


 夜。お皿を洗っているあこさんに、唐突に、ねえ、何をしている時が一番幸せ? と聞いた。たまにある。小川の口から、台詞のような他人事のようなフレーズが飛び出る。他人と自分をどうにかして混ぜては、舞台の上で何度も喋っているなんて、どうせ脳のどこかがおかしいのだろう。それほど聞きたいわけでもないのを見透かして、あこさんが、うざそうに「なんでですか?」と聞き返した。小川は、質問に質問で答えないで、と悪態をつく。15分ほどしてから「私はね、猫を持ち上げてなが〜く伸ばしている時」と、自分で答えた。だいたい本当のことだ。


 若者は、感染の自覚がないまま高齢者に移すのを配慮すべきだという。私らは、どっちなんか。と、小川は思う。配慮されるべき側なんだろう。もはや。と、思っていたら「配慮してもらいたいものですね。もはや」と、あこさんが笑った。甲状腺機能亢進症になった14歳の黒猫と、ちっとも大きくならないから12歳なのに3歳に見える白猫と、われわれ。

 

 オープンしたての可愛い手作りピアスのオンラインショップを眺めている。マスクしててもかわいいピアス。痛々しいほど前向き。狂っている。たぶん。すこし。
 

 私はこのまま何もしないだろう。日が落ちる頃に公園の側道をぐるぐる歩きまわる。サンダルでぶらぶら歩く小川を、ウォーキングシューズのあこさんが一周まわって追い越してゆく。自転車も、犬を連れた人も、追い越してゆく。鳩が飛び立ち、世界のほとんどのことが、小川を追い越してゆく。夕暮れの心地よい風がマスクから出た耳とおでこを撫でた。木々の芽吹く匂いがした頃から、どれくらい経っただろう。メール便で日焼け止めサプリが届いた。去年の秋から定期購入をストップしていたのだ。紫外線なんかほとんど浴びていない。すっかり忘れていたから、急いで解約する。



 どこかへ行きたいなー、と、大きな声で独り言を言う。けれど、もうこのまま、どこへも行きたくない、とも思う。

 毎日は丁寧に老けてゆく。




曇り。1階のキッチンの窓の外から「はい! 私の案ではそれでいこうと思います」と、誰かの、やたらハキハキした声がした。


 電話が鳴った。久しぶりに朝から学校へ出かけたあこさんからだ。「小川さん、演劇部の生徒が作る配信映画に出演していただけますか」
 
 若いお婆さんの役だそうです、と、若い、を強調した言い方。まもなく送られてきた台本のキャスト欄には「認知症の祖母・さわ(72歳)」と書いてあった。あまりにもおもしろそう。


 

 メイクするのは久しぶりだ。眉毛をシルバーのアイシャドウで塗ってみる。唇の血の気をコンシーラーで消してみる。チャコットの焦げ茶色のファンデーションをリップブラシにとって、左右の目尻に3本ずつ、口元の両側に1本ずつ皺を描いた。下瞼の下にもラインを引いて、薬指の先でぼかしていく。出来上がった試作の顔は、裏ぶれた洋品店のマネキンみたいで、この顔は後ろ向きなのか前向きなのか。小川は、粛々と出かける準備をしていた。
 


 自分が認知症の老婦人だったらと想像してみる。今のままでいいような気がした。わからないことをわからないと言うだけだ。




 金曜日。今日も学校に行ったあこさんからLINEがきた。「10万円、振り込まれていましたよ。二人分です」。政府からの特別定額給付金は、世帯主にまとめて振り込まれる。あらら、ありがとう、とりあえず、と思う。小川の、あこさんとの続柄は同居人だ。

 サーキュレーターを買おう。部屋の空気をぐるぐるかきまわす。







(おわり)

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