美大生にとっての生成AIの話

※当記事では生成AIの是非(適法性/違法性)について言及しない。

かつてはコップに入った猫を「猫である」と判断できなかったAIが、本格的に絵という分野に進出してから数年が経った。
初めこそよくわからない抽象画のような風景やラーメンを手づかみで啜る樋口円香を笑っていた私達に、現在の混沌とした状況は想像できただろうか。

よりにもよって、そんな絵という分野の過渡期に美術大学のデザイン科に進学を決めてしまった大馬鹿者がいる。私だ。
入試対策のデッサンをしながら、自分が目指す分野は果たして10年後に存在するのか、そんな事を考えていた。今やクリエイターにとって死活問題となった画像生成AIの普及は、確実に、それも急速にクリエイターの未来に暗い影を落としている。

……と思っていた時期が私にもあった。
実際はどうだろう。未だに単語や文章から的確にそのコンテクストを表現した美少女を生成してくれるサービスなど存在しない。あったら教えてほしいくらいである。
これからの進歩次第では十分に脅かされるかもしれない、という疑念もあるかもしれないが、私はそう単純に人間のクリエイティビティが脅かされることはないと思っている。
以下、その理由やAIについての個人的な見解と拙文である。


生成AI論争/美大受験時代

現在のAIをこの話題なしに語ることはできるのだろうか。
はっきり言って、現在の生成AI論争はカオスそのものだ。24時間休みなくAI規制派/推進派と呼ばれる人たちのレスバトルが繰り広げられ、直接関係のないサブカルチャー業界や一般人を巻き込んで議論の火種が燻っている。
それはもっぱら著作権や法律に関するロジックと密接に関係づけられており、このスタンスはおそらく今後も変わることがない。

一方、美大受験生のとき予備校の友人たちは割とAIを忌避していたように思う。
しかし、それは著作権や法律を理由にしたものではなく(あったのかもしれないが)単純に食い扶持がなくなるという恐怖心から来ており、実際私もそのうちの一人だった。
美大というのは目指す段階から大体の一般大の選択肢が閉ざされ、「お前は絵で食っていく」という片道切符を渡されるようなもので、受験生も絵そのものが収入源に直結する予定の人ばかりなのだ。
数年前はAIにクリエイティブな分野が侵犯されないという、社会の合意があった。当時そんな性能のAIはなかったし、登場する予定もなかった。
そこで話は冒頭に戻る。御存知の通りAIはいとも簡単に絵を出力するようになってしまった。
「待ってくれ、話が違う。そんなこと、先生は教えてくれなかった......。」

それが通用しないのが社会だ。ミクロな視点で見れば、AIに限らずとも機械に淘汰された職業というのは数多く存在する。

近所のスーパーからレジの店員さんが消えて久しい。
そういえば、昔は改札って駅員さんがいて、切符を切っていたらしい。
世界史でラッダイト運動ってのも習ったな…。

それは資本主義や人間の利益追求の宿命であり、絵の分野にもそれが訪れてしまった、という話かもしれない。無常である。

ではなぜ私が「AI、大したことないじゃん!」と考えるかと言えば、絵という分野が極めて人間的な難解さを秘めているからだ。

例えばデザインには「良いデザインに近づく方法」はあっても、「良いデザインを作る方法」はない。視線誘導だの色のバルールだの明度差だの専門用語を並べ立てて緻密に計算しても、完璧なデザインを生み出すのは至難の業だ。「良ければ良い」というトンチキな日本語ができるほどにデザインは奥深い。美少女イラストも目を凝らすと、職人技とも言える「美」が隠されていることがわかる。
しかし、AIは仕組み上それすらできないのだ。AIに上記の概念はなく、学習した特徴量を拾い出している。挙句の果て、生成物は微妙だ。マジで微妙。インスピレーションにはなってもそれを提出なんてできない。それほどに使えない代物なのだ。生成フローがそもそも駄目だから、進化のしようがないともいえるだろう。


生成AIに淘汰される分野

さて、そうは言ったもののAIに淘汰された分野を私は知っている。

音声作品のサムネイルだ。
大真面目に言っているが、私は音声作品が大好きなので、音声作品のサムネイルがどのように変遷してきたかを知っている。大体2023年から中小規模のサークルが生成AIで出力した美少女をサムネイルに採用する事案が増え始め、今では大手サークルでもそこそこな割合で生成AIによるサムネイルを使っているところがある。簡単な話で、金銭的にカツカツなサークルがサムネイル依頼費用の削減のために生成AIで美少女を出力したということだろう。これはつまり、「企業や広告ほど厳密性を求めない場所では、生成AIによる作品がそのまま採用される傾向にある」ということだ。AIの廉価性と美少女お絵かきという得意分野がマッチした結果、見事にその分野で絵に関わる仕事が淘汰された一例だろう。
これを踏まえると、生成AIによって今後存在が危ういのは「美少女やオタク向けイラストのクリエイター」の中でも、(言い方に毒があるのを重々承知で)小規模、低額依頼を受け付ける人たち、ということになる。


ネオ・ラッダイト運動

先程、「人の職業が効率化のために機械に取って代わられることは往々にしてある」という旨のことを述べた。私は、それに関する反対運動自体をするべきでないとは思わない。例えば労組が人員削減に反対して運動を起こすのは自然なことだし、自然に発生する権利だからだ。

ただ、それが成功した例が殆どないというのも特筆に値する。現代日本で英文ツイートを翻訳家に依頼して母語で読もうとする人はいないし、電話交換手になりたがる人もガス灯を点灯させるために夜の街を練り歩く人もいない。

  • ただ生成AIに関して、この運動は絶対に成功しない。その根拠は、「反対相手が消費者である」ことにある。鉄道職員が自動改札の普及に際して反対したのは雇用主だったはずだが、今回私達の反対相手はクライアントたる世界だ。どう考えても分が悪すぎるが、個人事業主とはそういうものだ。消費者は私達が感じる手描きの温かみとか努力の価値をそこまで気にしない。

  • 一方、企業に就職したデザイナーやクリエイターはそれに比べたらまだ可能性がある。反対相手はその企業で、契約内容によってはまだ食い扶持を維持できるし、そもそもの話厳密性を求めるような場所では人為的なデザインのほうが100%優れている、という理由が挙げられる。

以上のことから、音声作品のサムネイル然り、美少女イラスト然り、小規模な絵描きのマネタイズはこれから難しくなっていくことはあり得ると思っている。これは絵のコモディティ化とも言えるし、一言にAIの脅威として片付けることは難しい。以前からそういった低額依頼ははっきり言って飽和状態だったし、遅かれ早かれこのような状況は来ていたはずなのだ。次項でそれについて掘り下げたいと思う。


絵がありあまる世界

人類がラスコーの壁画を描いた頃にマネタイズという概念はなかったから、無論絵描きという職業もなかっただろう。では、いつから…となると難しいが、少なくとも中世の宗教画やルネサンス期の見事なテンペラは王侯貴族が絵描きに依頼して描かせていたはずだ。
絵というスキルは独占され、少数の技能を持った人が高額で仕事を受け付けていた。

そこから徐々にそのスキルは皆に知られることになり、顔料やデジタル絵具の普及とともに広がり続けて、私達はyoutubeでお絵かき講座などを気軽に見られるようになる。すると何が起こったか。大お絵かき時代である。先生に隠れてノートの端にラクガキをしていた私達は、いつのまにか絵そのものがオープンソースであると気づいてしまったのだ。
タイムラインを少し動かせばあのキャラクターのファンアートが流れ、プレゼンの資料にはいらすとやの素材がふんだんに使われている。ピカソやゴッホには想像もできなかったのではないだろうか。

生成AIは、その開かれた場をさらに開かせてしまった。精度はともかくとして、高度なお絵描きスキルを持たない人にとって、自分の思い描く情景を数秒で見せてくれる生成AIは魔法のような存在である。そしてpixivはAIイラストで氾濫することになった。規約にAI禁止と書いていなかったので当たり前だが、この「誰でも」「即時に」「大量に」という点は、最大のメリットであると同時に有限のサーバーを抱えるフォーラム側が今後解決しなければならない重要事項だ。

個人的に、その「開かれた芸術」という概念は素晴らしいものに感じる。貴賎を問わず絵という分野に触れることができ、皆が思い思いの美少女を鑑賞できる。それと絵描きの食い扶持を天秤にかけるのは、すこし残酷なようにも感じてしまうのだ。


美大のAIに対するスタンス

武蔵野美術大学(武蔵美)という大学がある。私を落とした、極悪非道な大学である。
美大界トップクラスの立ち位置にいる武蔵美は、かつて生成AIに関するメッセージを出した。

これを読むと、美大側は生成AIを少なくとも脅威ではなくツールや学びの対象として見ていることがわかるだろう。美術界の総意というには早計すぎるが、美大のスタンスなんてそんなもんである。AIは止められないから使いこなせる側の人間になれ、と。
だいたいそんな状況でAIを止めるために活動者になったところでAIは止まらない上に周りはどんどん上達し、AIをツールとして使いこなしてしまうのだ。最悪である。

ただ、絵を学んだ人間がAIを使うと、明確なメリットが出てくる。手描きで学んだ専門知識がそっくりそのまま使えるのだ。なにも手描きとAIは互いに独立したアートではなく、互いに不可分な領域であることは自明なので、今後はAI技能を持てばより高い領域に行ける、という可能性すらあるのだ。


努力主義という暗い沼

さて、みんなの住むお絵かき村には古くからのしきたりがある。
「過程」とか「努力」みたいなものをめちゃくちゃ重視する、というもので、生成AIが嫌われてしまったのはこれも一因であることは言うまでもない。
これに関しては、くだらないから早くなくなってくれないかな、と思っている。というのも、実はみんなの大好きなデジタルイラスト自体が排斥されてきた過去があるからだ。ご存知レイヤー機能、アンドゥ機能、カラーパレットは「怠けている」、「デジタルイラストはイラストではない」などと非難轟々であった、という過去がある。ところが今はどうだろう。正直、デジタル派が多数派といってもいいのではないだろうか。アナログでやりたい人はやればいいし、デジタルもいいよね、という現状に至るまで、お絵描き村ではいろいろな論争があったということを忘れてはならない。
私は受験でアナログも触ったことがあるから言うが、正直デジタルなんてチートだ。イカサマだ。こんな機能、色彩構成のときに欲しかった...。

ここから一つわかることは、絵描きという生き物は過程の短縮みたいな効率化に異様に厳しく、それ故に新技術も受け入れられづらく、かなり時間がかかるということだ。AIも同じではないだろうか?絵を描かない人間にとって、正直ポーズがAIによるものか人為的かなんて興味がないはずだ。結局はお絵描き村の因習というのは時間が経てばコロッと変わってしまうので、AIもそのうち受け入れられるはずである。こんなものは創作者の邪魔でしかないので、努力主義自体を見直せばいいと思っている。


最後に

まとめると、廉価なイラストの氾濫によってクリエイターは苦しくなったけど、それは消費者側にとっては得でもあるので仕方ない上に、生成AIは絶対クリエイターにとって必須ツールになるので技能だけは習得しておいて損はないよね、ということだ。美術を仕事にしようとしている人もそうでない人もいつかは効率化の波がやってくる。美術業界は思ったより早かったけど。



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