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死について

7月に、祖父が亡くなってから私は死についてばかり考えている。
いつも笑顔だったおじいちゃん、大好きだったおじいちゃん、何故目を閉じて動かないとか分からなかった。明日になればおはよう、と起きる気がした。気持ちよさそうに眠っていた。
火葬の際、一旦葬儀場に戻り親族で昼食を食べる時間の時、何故みんな食事に喉が通るのか分からなかった。
みんなが大好きなおじいちゃんが炎に包まれているというのに。
しかし、お骨をあげるときに初めてもうこの世にいないことを実感した。

↑元気がない私に同じ状況だった友人が送ってくれた蓮(きれい)



あれから早くも約2ヶ月。まだ実感は沸かない。年のとったおばあちゃんも、いつどこかへ行ってしまうか分からないのに、なかなか家へ行けない。
おじいちゃんはもう迎えてくれない。

おじいちゃんは、どこへ行ったのだろうか。
死んだら、どこへ行くのだろうか。

1.今は考えを張り巡らしているのに、それがもう一瞬で途切れてしまうのか?
2.それとも透明になって好きなところに存在できるのか?
3.死役所(漫画)のように死後の世界があるのか?

全部辛い。 

私は1だと思う。できれば、2がいい。でも、透明だからどれだけ愛しい人のそばにいても気づいてもらえない。そして、たまに私のことを忘れて幸せそうに暮らす愛しい人を見ていられるだろうか。

祖父のようにこの世を去ることができたらいいと思う。
長い人生を経験し、死を悟る年齢になり、最期は家族に見守られながら。
どうもそうにはいかないかもしれない。

明日いきなり苦しくなるかもしれない、上から何かが降ってくるかもしれない、知らない人が飛びかかってくるかもしれない。

私、及び私に関わる全員が歳を重ねて、愛する人に囲まれて最期を迎えることができたらいいのに、と思う。

何故、一生懸命に生きているのに突然に終わりは訪れてしまうのだろうか。
もっとやりたいことがあったのに、楽しいことが待っていたのに。
そして、誰かの命を奪う人もいる。何故関わったこともない人に人生を終わらせられなければならないのか。一人で死ねばいいのに。

病気も辛い。苦しみながら、死を感じながら終わりに近づいていく。本当に辛い。遊びにも、学校にも行けない。
私のまわりには、まだこのような人がいない。でも、もう連絡先も知らない幼稚園、小学校で同じ校舎で過ごした人には誰か苦しんでいるひとがいるかもしれない。

私は、この世からいなくなってしまいたいとたまに思う。
でも痛いのは嫌いだから絶対自死は選べない。つまり痛いのが嫌い、と思える今は生きたいのだ。
それも厭わなく思う日が来てしまわないことを祈る。

そして、今死んだところで私に残せるものは何もない。
誰かを、幸せにしたことがあっただろうか?恩返ししたことがあるだろうか?
何もないのだ。
私は人より不幸で、寂しくて、何より卑屈な人間だ。 
でも、大好きな人を愛すことができるし、多分優しさは持ち合わせている。
これからこんな私だって、色々経験したいし、やりたいこともある。  
生きたい。

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