見出し画像

Revenant Doll 第26話

第3部

8 吶喊

 
 こういう日はみんな同じ服装で出席するはずだと、特に理由もなく思い込んでいた。でもこうして講堂に並んでいる卒業生の服装は、女子はセーラー服やブレザー、普段着とばらばらだ。男子はほとんど詰襟の制服だけど、中には普段着の子もいる。
 ぼくは四月に入学する中学校の黒い学生服を着ている。襟のホックを掛けていると、顎のところが窮屈で仕方がない。お母さんは「そのうち慣れる」って言ってたから今は我慢しているけれど、進学したら毎日こんな窮屈な思いをして登校しなきゃならないのか。襟を外すと不良みたいに見られるらしいし、不良がかっこいいとも思わない。

 「仰げば尊し」の合唱が始まった。
 
 仰げば尊し わが師の恩
 教えの庭にも はや幾年
 思えばいと疾し この年月
 今こそ別れめ いざさらば
 
 互いに睦みし 日頃の恩
 別るる後にも やよ忘るな
 身を立て名を上げ やよ励めよ
 今こそ別れめ いざさらば
 
 朝夕慣れにし 学びの窓
 蛍の灯火 積む白雪
 忘るる間ぞなき 行く年月
 今こそ別れめ いざさらば
 
 女子の何人かは泣いていた。ぼくはそれほど悲しいとは感じなかったのに、ところどころ思い出せない歌詞を周りに合わせて歌っているうちに、嗚咽を感じて目から涙がこぼれそうになってしまったのは雰囲気にのまれたからだと思う。でも泣くのはきまりが悪いのでどうにか我慢した。
 
「皆さん。このたびはご卒業おめでとうございます」
 
 校長先生の話が始まった。正面のステージには演壇があるけれど、そこに人の姿はない。なのに校長先生の声は聞こえる。ステージの左右を見ても同じように誰もいない。
 
「この嬉野小学校に入学して六年間、皆さんには楽しいこと、うれしいこと、つらいこと、いろんな出来事があったと思います。私は校長として、皆さんの六年間の締めくくりに立ち会えることをとても誇りに思います」
 
 誰かがぼくの学生服の袖を引いている。驚いてそっちに顔を向けると、右横に立っていた同じクラスの小林千恵ちゃんがぼくを見ていた。彼女も四月から進学する中学校のセーラー服を着ている。
 千恵ちゃんはぼくの袖を引っ張ったまま、黙って列を離れた。ぼくは訳も分からないまま彼女に従って、卒業生の集団から抜け出した。
 校長先生は式辞を続けている。講堂の出口へ歩いていくぼくたちを、誰も振り返ったり見とがめたりしなかった。
 
 靴を履き替えて校庭に出ると、細かい雨が降っていた。まだ外は肌寒かったけれど、もう真冬のような厳しい寒さは感じない。講堂でじっと立っている方がつらい。千恵ちゃんはバックネットの方へぐいぐいとぼくを引っ張っていく。
 
「私、決めたの」
 
 ぼくの袖をつかんだまま、千恵ちゃんは真顔でそう言った。普段は陽気でにぎやかな彼女が、そんな真剣な話し方をするのは怖い。でもきっと、卒業式の日はそういう日なんだ。今までクラスメートが隠していた部分を、どんなに気後れがしていても無理矢理知らされるんだろう。
 
「何を決めたの」
「中学校には行かない。ずっとここにいる」
「だって、四月になったら五年生が六年になるでしょ。七年生にはなれないよ」
「何年生でもないのよ。まなぶくんは中学生になりたいの?」
「だって卒業したら、どっちみち小学校にはいられないよ」
「だから卒業しないのよ」
 
 彼女の言っている意味が分からない。「卒業しない」って、千恵ちゃんはそれを自分で決められるつもりなのか。先生たちは「成績が悪いと卒業できないぞ」って今までぼくたちを脅かしてきたけれど、実際にそんな生徒がいたなんて話は聞いたことがないし、千恵ちゃんはクラスで一番勉強ができる。学校が「卒業させる」と決めたら嫌でも卒業するしかないじゃないか。
 ぼくたちはバックネット裏の鳥小屋まで来た。千恵ちゃんは制服のポケットから鍵を出して鳥小屋の錠を開け、中にぼくを引っ張り込んだ。
 
 千恵ちゃんはケージの一つを開けて、寄ってきた野ウサギを抱き上げた。
 
「マルくん元気だった? ごはんあげるからね、ちょっと待ってて」
 
 小屋の奥に立ててある戸棚から丸い缶を取り出し、スナック菓子みたいな黄緑色をした飼料を、ケージの中のトレイにひとつかみほどあけた。マルくんが餌を食べる様子を、真上にしゃがみ込んだ千恵ちゃんは愛おしそうに眺める。傍らに立つぼくのことなど忘れてしまったかのように。
 
「卒業式終わっちゃうよ」
「どうだっていいよ。この子ね、私からじゃないと餌を食べないのよ。私がいなくなったらどうなる? 死んじゃうわよきっと。だから私がずっと世話をする」
 
 ウサギのせいで千恵ちゃんが進学できないなんて、そんなことがあっていいわけがない。ウサギが死なずに済んで、千恵ちゃんも中学生になれるにはどうしたらいいんだろう?
 
「先生に頼んで、マルくんも中学校に連れて行けるようにしたら?」
「バカね。この子はこの小屋で生まれてここで大きくなったのよ。できるわけないじゃないそんなこと」
 
 小屋の中で放し飼いにされているアヒルと鶏が近寄ってきて、千恵ちゃんの周りをガアガア、コッコと鳴きながら歩き回り始めた。千恵ちゃんは立ち上がって戸棚からそれぞれの餌を用意し、制服が汚れるのも構わずにアヒルたちに与えた。
 彼女がいなくなった後、この子たちも新しい飼育係からは餌を食べないのかもしれない。
 
「『動物の世話をしたければ家で犬を飼え』って先生が言ってたよ」
 
 鳥小屋の外から声がした。同じクラスの松本じゅんが空のバケツを持って、金網の隙間からこちらを覗き込んでいる。千恵ちゃんは淳を睨みつけて「犬が好きなら勝手に飼えば? 私たちに関係ないでしょ」と言った。ぼくは彼が少しかわいそうになった。
 
「松本くん卒業式は?」
「おれも卒業しないことにした。便所掃除が終わってないし」
「便所? 掃除してどうするの」
 
 淳は中学校の制服を着ていなかった。ついさっきまで便器を磨いてたのかもしれない。
 
「決めたんだ。学校の便器は全部おれが綺麗にするって」
「便器なんて毎日汚れるんだし、きりがないよ。下級生に掃除させればいいじゃん」
「嫌なんだよ。便器が汚れると思うと死にたくなるんだ」
 
 自分がいなくなった後、学校の便器が汚れていくと思えばきっと悲しい。でもどうすることもできないから、下級生に「掃除を頼む」と言い残して、後は信じるしかないんじゃないだろうか。誰も淳ほど熱心に便器を磨かないかもしれないけど、彼の便器じゃないんだし、仕方がない。
 卒業するというのは、そういういろんな悲しいことの塊だ。じゃあ、ぼくにとっては何が悲しいことなのか。考えてみたけれど思いつかなかった。
 
「おれが卒業した後も便所掃除はしっかりやってください、って先生に言ったんだ。先生は『分かった分かった』って嫌な顔をするだけだった。きっと誰も便器を磨いたりしないよ。だから俺は卒業しない」
 
 その時、スピーカーの校内連絡が校庭に鳴り響いた。
 
「六年一組の小早川学くん。至急講堂へ来てください。校長先生が呼んでいます」
 
 女子の声だった。千恵ちゃんと淳も卒業式を抜け出しているのになぜぼくだけが呼ばれるのだろう。二人はその場から動こうともしない。やがて千恵ちゃんが「二組の喜和子ちゃんだ」と言った。
 
「あの子、『御蚕様』になるのよね」
「おかいこさま?」
「知らないの? 誰でもなれるわけじゃないのよ」
 
 六年二組の斎藤喜和子ちゃんは評判の美人で、ぼくも廊下ですれ違うたびにちょっとどきどきする。「おかいこさま」になるというのは、そういうことと関係があるのかもしれない。
 
「早く行きなさいよ。校長先生怒るわよ」
「千恵ちゃんたちはどうするの」
「私たちはいいの。卒業しないんだから」
 
 誰もいない校庭を、ぼくは一人で講堂に向かった。鳥小屋の方を振り返ると、さっきまでと同じように千恵ちゃんは金網の中にしゃがんでいて、淳は外に立って中を見ている。そこだけ時間が止まったみたいに。校舎を見渡すと、どの教室も窓の奥に生徒の姿は見えなかった。下級生たちはみんな下校したのかもしれない。細かい雨は降り続き、曇り空の下の校庭はどこまでも静かだった。
 講堂に着いてみると、もう誰もいなくなっていた。ステージ上に人がいないのはさっきまでと同じ。千恵ちゃんと鳥小屋にいる間は気付きもしなかったけれど、いつの間にか卒業式は終わって、卒業生は全員帰ってしまったようだ。誰もいない講堂の中に立ち尽くしていると、ステージの方から「小早川学くん」と校長先生の声が聞こえてきた。
 校長先生は別の場所にいて、マイクを通してぼくに呼びかけているらしい。
 
「小早川学くん、壇上に上がりなさい」
 
 ぼくは「はい」と答え、二日前の予行演習を思い出しながら、右端の階段からステージに上がって演壇の前まで歩いて行った。誰もいない講堂で、校長先生の言う通りにしているうちに、今年の卒業生は僕だけのような気がしてきた。
 もしかしたら、他のみんなは千恵ちゃんや淳みたいに学校に残って、ぼくだけが学校から追い出されるんだろうか。そんなのは嫌だ。皆が学校に残るならぼくも残る。そんな不安で頭の中がいっぱいだったけれど、ステージに上がったぼくは予行演習通りに、演壇の前で校長先生の指示を待っていた。そこにはさっきまでと同じように、コップを被せた水差しとマイクが置かれていた。
 少し経って、マイクから校長先生の声が聞こえた。
 
「小早川くん」
「……はい」
「他の卒業生は全員、卒業証書を受け取りました。君は受け取りませんでしたね」
「はい」
「君はもう卒業証書を受け取ることはできません。卒業できない君の進路は、二つあります。一つは、校長であるこの私にいっさいを任せて、私が君のこれからを決める。もう一つはあと一年間、小学六年生を続ける。どちらがいいですか」
「もう一回、六年生をやります」
 
 突然、マイクから変な雑音──大勢の大人がガヤガヤと騒ぐような声──が聞こえて、ゆっくりと静まった。校長先生がまた話し始めた。
 
「六年生をもう一回? 君は分かっていないな。四月になれば今の五年生が六年生になる。君は今六年生なのに、四月になってもまだ六年生をやるつもりか? そんなことが許されると思ってるのか。誰も認めないよ」
「でも進路は二つあるって、先生は」
 
 やっぱり、卒業式を途中で抜け出したのが間違いだった。ぼくはものすごくみじめな気持ちで、もうどうにでもなれと思っていた。
 
「確かに君は、自分が六年生のままでいる道を選ぶことができる。でも今の五年生が六年生になった時、君が他と同じ六年生でいられると思うか。そんなことは絶対に無理なのを、君は分かっていないのです。だから実際には道は一つしかない」
「ぼくはもう卒業させてはもらえないのですか」
「諦めなさい。最後まで卒業式に参加した他の卒業生と不公平になるようなことは認められない。私が君の今後を決める。それでいいですね?」
「……はい」
「戻りなさい」
 
 ぼくはマイクに頭を下げて回れ右をし、同じコースをたどってステージを降りた。誰もいない講堂の真ん中で、一人で演壇に向かっていつまでも立っていた。日が暮れて夜になっても誰も現れなかった。
 
 校長先生にすべてを任せたぼくは、家を出ることになった。お父さんとお母さんは、卒業証書を受け取らなかったお前が悪いと言って、風呂敷包み一つでぼくを追い出した。行き先は、故郷を遠く離れた島の漁師の家。ぼくはその家の主人が沖へ漕ぎ出す小舟に乗せられ、鯛の一本釣りをする間に櫓を押さえる仕事をさせられた。主人はちょっとでも気に食わないことがあると、海の上でもお構いなしにぼくを殴った。夜はぼろぼろの冷たい毛布をかぶって毎晩泣いた。

 仕事を覚え、体が大人と同じくらい大きくなった頃に徴兵検査を受けて入隊した。もうお父さんとお母さんの顔も思い出せなくなっていた。じきに戦争が始まって、ぼくの部隊は大陸に渡った。中国のどこだかよくわからない野原で突撃ラッパが鳴り、ぼくは他の兵隊たちと一緒に吶喊とっかんした。大して走りもしないうちに、真正面から頭を殴られたように感じて仰向けに倒れた。
 空を雲が流れていく。千恵ちゃんは今もウサギやアヒルの世話をしているだろうか。淳は便所掃除を続けているだろうか。もう体が動かない自分よりもそんなことばかりが気になる。

 学校に帰りたい。そしてみんなに会いたい。
 

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?