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Revenant Doll 第29話

第3部

11 桐谷新太郎の覚書/Revenant Doll


 あれから半年が過ぎた。難事件の捜査ではいつもそうだが、暗中模索するしかなかった前後の関係が、解決した後になってみると嘘のように簡単明瞭に見える。ある目的地に通い慣れるうちに経路の感覚が体に定着して、目を塞がれてもたどり着けそうに感じられるのと似ている。もちろん捜査担当者の思い込みや一人合点である場合も含めての話だ。

 今思えば、あの少年が最悪の道をたどることのないようもっと積極的にサポートすべきだった。彼の危うさは十分過ぎるくらい感じていたにもかかわらず、私には覚悟ができていなかった。だから「座光寺家の当主となるのは辞退したい」と打ち明けられた時にも、「よく考えろ」以上のことは言えなかったのだ。

『すべては個人の自由だが、君にとってそれは、自分の運命に背を向けて逃げることにならないか。「理不尽な話がある」と思うなら、踏みとどまってそれと戦うべきではないのか。戦うべき正念場で逃げたら、一生逃げ続けることになりはしないか』

 警察という、理不尽を絵に描いたような組織に身を置く者だからこそ、そう伝える役割が私には振られていた。「自分がそれほどの言葉に値する人間か?」という疑念に抗えなかったのは、結局は卑劣さの証でしかない。
 
 二カ月ほど前、事件当時の捜査主任だった長田隆一警部の親族にかねてから頼み込んでいた遺品の閲覧を許可された。不謹慎な話だが、山のように積み上がった私物から目当ての捜査資料を発見した時には、花火でも打ち上げたい気分だった。
 津川俊助殺しの公式な捜査記録はほとんどないに等しい。それまで私は内務省から警察庁へ引き継がれた書類を個人的な調査の柱としてきたが、これらの書類からして表面的な事件経過を記述しているに過ぎず、特に当時の捜査班による任意聴取記録は皆無というありさまだった。**県警本部の倉庫に残る資料に至っては失踪事件として処理した記録しかない。そもそも、非公式に殺人容疑の捜査が行われていた事実自体、横浜で首から下の骨が見つかるまで闇に葬られていたのだから、下手をすれば事件の存在そのものが歴史から消えてしまってもおかしくなかったのだ。
 それでも私には確信があった。公式記録としては破棄されたとしても、刑事が殺人事件の記録を簡単に葬ってしまえるはずはない。それを親族宅でようやく発見できたのは、捜査官としての長田警部への信頼が結実したとささやかながら自負している。

 結論から言うと、被疑者は四人が固まっていた。いずれも愛国を掲げる政治結社所属の若い男だが、旧一之瀬村には何の縁故もない。命じられれば何でもやってのけるゴロツキとして集められた連中だった。
 その四人──野崎純平(事件当時二四)、仁木正夫(二二)、吉田松吉(同)、栗原儀一郎(二五)──は共謀の上、まず在郷軍人会の会合に潜り込み、そこで津川の人相着衣を確認すると、その後入営者壮行会に移った津川が退出するのを待った。壮行会が終わった午後九時過ぎ、徒歩で帰宅する津川を尾行し、言葉巧みにひと気のない場所へ誘い出して昏倒させた上、頭部を切断して殺害した。津川の頭部は京都在住の瀬良道彦(五六)のもとへ送られ、加工を施された上、栗原が夜陰に紛れて嬉野小の朝礼台に放置した。
 調べに対して四人は黙秘を続けていたが、やがて栗原が長田警部の誘導に乗り、「津川は児童に無政府主義的教育を施す不逞の輩である」と供述した。
 頭部を毀損した意図について、栗原は悪びれもせずこう言い放った。
 
「国家に仇為す輩を、それにふさわしい姿にしてやったまでだ。あんたらにも分かりやすい形になっただろう」
 
 角の生えた頭部=鬼が人々に忌み嫌われる妖怪であることを前提に、「不逞の輩」の正体として暴き出してやった──。これは政治的意図による印象操作であって、怨恨はそこに存在しない。そしてなぜかこれ以降の追及は行われず、四人は三日間の勾留で釈放されている。
 よくある「諸般の特殊性に鑑み」というやつの最悪のケースで、恐らく内務省筋から指示があったのだろう。
 四人が釈放された段階で、事実上捜査は終わった。その後始まったのは、不都合な真実を隠蔽することを目的に、嘘を「公認された事実」に仕立て上げる作業であって、これは端的に捜査を隠れ蓑にした組織犯罪・・・・という他はない。〝守るべき者〟の身代わりとなる手頃な犠牲者の物色が、捜査を口実にして行われただけだ。藤山はつ子はその毒牙にかかった。
 
 さすがに長田警部はこのような悪事に加担するのを潔しとせず、実行犯の釈放直後に捜査主任を降り、二カ月後に依願退職した。その後は人との交わりを避けて隠遁者のような余生を送ったらしい。
 現代を生きる私は、なぜ彼が内部告発に踏み切らなかったのかと考えるが、やはり時代の制約に逆らうのは難しいのだろう。所詮は彼も明治の人間だった。
 
 頭部の細工を請け負った瀬良は最後まで完全黙秘を貫いた。栗原のようなハッタリは意味がないと思っていたようだ。
 瀬良は京都で米穀商を営んでいたが、別の顔を持っていた。極めて特殊な種類の人形を製作し、それを英国人貿易商を通じて欧州の市場に出荷するのだ。人形とはいっても、要するに「剝製はくせい」である。つまり瀬良が裏の生業としていたのは、人間の剝製を人形と称して製作することだった。
 人間の死体を愛玩用の人形に加工する技術はもともと日本にはなく、「素材」は生きた状態で主に欧州へ送られていたのだが、明治期以降、国内でも瀬良のように加工技術を身に付けた者が現れたということらしい。「国産の人形」がどれほどのシェアを占めていたか──これは地下経済の最深部に属しているため、詳細は深い闇の中にある。
 財を惜しまぬ顧客の要望は想像を絶するものがあり、そのすべてに瀬良は応えていた。極端な場合、人体に際限もなく加工を施した結果、人間の痕跡すら認めがたいような外観すら完成させる。頭部に角を植え込むくらいはごく初歩的な技術でしかなかった。
 人間の頭部を「鬼」に仕立て上げたのは、殺害動機が怨恨であるかのように偽装するのと同時に、暗黙のメッセージとする狙いによる。すなわち「『不逞の輩』の正体はくのごとし」。あるいは一之瀬村に近い山間部に残っていた奇習──人間の頭に隠されている角を死後、象徴的に表に現す──のことを知る誰かが関係者の中にいて、捜査を攪乱させるために栗原らに吹き込んだのかもしれない。
 いずれにせよ、津川は彼自身の行動によって「不逞の輩」と見做され、狙われることになった。それは、彼でなければいずれは他の誰かが引き受けねばならない役回りだった。だからこそ見て見ぬふりをする卑怯さに耐えられなかったのだが、結果的にはそれが原因で命を落とした。間違いなく正義は存在しなかった。
 
 ところで、明治維新の原動力とは何だろう? 教科書に書かれているような、開国を求める欧米諸国の外圧、あるいは近代的な社会を目指そうという民衆の覚醒か? 根本的なところはいずれでもない。数百の藩が半独立国のように分立していることの弊害が、無視できぬほど大きくなったからだ。朝廷から国政を委譲されていた徳川将軍家の弱体化もその背景にはある。
 
 十八世紀後半から十九世紀前半にかけ、日本列島は二つの大飢饉に見舞われた。どちらも異常気象が原因とされていて、東北地方で特に甚大な被害をもたらしたが、何よりも幕藩体制の限界が被害を一層深刻化させた。凶作の度合いも地域ごとに当然差はあったはずで、栽培技術の進歩は抜きにしても、今日のように全国一律に食料を融通し合う体制が整っていれば犠牲者はずっと少なくて済んだだろう。天井知らずの米価高騰にも幕府政権はまったくの無力だった。こうした悲劇を繰り返さぬためにも幕藩体制は一刻も早く終わらせる必要が生じていた。私はこの「集合的無意識」が、明治維新の最大の原動力だと考えている。
 飢饉のさ中でなくとも、農村での食料不足は深刻だったから、「口減らし」あるいは前借金のカタとして、労働力にならない子供は当たり前のように売られた。売られた子は死んだものとして供養されたり、卒塔婆を立てられたりもした。それでも我が子を売ることの罪悪感は、神隠しの伝承となり、異界へ去った子らを神格化する意識へつながったりする。子供たちの間ならば、かくれんぼ遊びの最中に姿を消した友達の言い伝えとして現代に残ったりもするのだ。
 人が人肉を食わずに済むよう、進退窮まった親が子を〝食い物〟にすることのないよう、この国は近代国家への衣替えを目指したはずではなかったか。だが政治体制を一新したとしても、人の肉や売買される子供に対する「需要」までが滅びたりはしないことを、現代を生きる我々は知っている。親たちの切迫した「事情」が和らいだところで「需要」が途絶えるわけではなく、むしろ旺盛な「需要」を満たすために新たな「事情」が生成されることも、我々は知っている。この「需要」は、時代が変われば新しい政治体制と共存関係を結び、変幻自在に外観を変える。
 明治維新を境に日本は新しい世界へ移行し、過去ときっぱり絶縁したかのような神話はいまだに根強い。しかし、もし「神隠し」がそれまで連綿と続いてきたなら、政府の号令とともに子供が義務教育制度の保護下に置かれたからといって、綺麗さっぱり途絶えるだろうか? そして子を売らなければならない切実な事情は過去のことになるだろうか? その一方で、忌まわしい「需要」は消えるどころか、むしろ膨れ上がっていったのではないか? この需給の受け皿はどこへ向かうのか? ……結局、「不都合な経済」は地下へ潜ることになったのだ。
 
 津川が着任するまでの嬉野小学校には、そういった地下水脈の一つの支流が存在した。それは地元では半ば公然の秘密であったらしい。
 具体的な手口はこうだ。仲買人が親と交渉して契約が成立すると、親は健康上の理由で登校できなくなったと届け出る。学校当局は事情を承知の上で児童を抹籍し、最初から入学していなかった扱いにする。実際には仲買人と学校当局が共謀して不安定ながら毎年数人を供給し、多い年には十人を超えることもあったようだ。津川の前任者、中尾喜一に至っては校長でありながら自らが中心となって差配していた。
 津川はそれを絶とうとした。彼は校長に就任すると仲買業者に絶縁を通告し、警察に対しては歴代校長を告発するとともに、人身売買の厳重な取り締まりを要請した。もちろん告発は津川の死によって闇に葬られた。

 「人心に与える動揺が大きい」「無用の波風を立てる」──。表向きの理由は何であろうと、事件の裏でどういう力が働いたかは火を見るより明らかだ。変わり果てた津川の頭部は、巨大な「需要」の力に真正面から挑めばどんな運命をたどるかという警告の印だった。犯行がおおやけにならず、幸か不幸かテロとしての最終目的を達成しなかったのは皮肉な結果と言わざるを得ない。
 それでも、校長が「神隠し」の最後の犠牲者となったことの真意を、当時の一部の人々は意識下で正確に理解しただろう。事件が未解明となって誰一人処罰されなければ、警告の効果は一層揺るぎないものとなる。何もかもが滅茶苦茶だった。この滅茶苦茶ぶりを放置した者たちの罪は、周知の通り、数十年もの歳月を経て何も知らない人々が償わされることになった。
 
 そして「御蚕様」は、この悪魔的な「需要」の象徴だった。子供の人身売買は、男子であれば農漁村や鉱山、女子は花柳界という一般的な市場の一方で、容姿が抜きん出て優れている者には海外向けに特別な処遇が用意されていた。
 彼ら彼女らは異国の地で、成年に達してその美貌を完成させるまで何不自由なく育てられる。その顔色からどんな翳りも払拭されるようにと、あらゆる満足が惜しみなく与えられた。
 他の売られた子に比べたら天国と地獄だが、繭籠りするまでは桑の葉を欲しいだけ与えられる蚕の幼虫と同じように、やがて収穫の時がやってくる。命と引き換えに美しさの絶頂を永遠にとどめることが、最高の処遇の代償となった。彼らは「人形」として、特殊な嗜好を持つ顧客を楽しませる運命を担わされた。選ばれなかった子らに比べて幸福だったか否かは確かめようもない。
 いずれにしても運命は残酷だ。異国の屋敷の奥の間で愛され続ける限りはいいが、別の者に寵愛を奪われたり、主人が亡くなったりすれば存在価値も消える。もの言わぬ彼・彼女が望まなかったに違いない帰郷を強いられる場合もある。
 人形の製作技術を身に付けた瀬良は、自分の「作品」を海外の好事家向けに輸出するかたわら、外地から返品される人形を高額な手数料で引き取り、処分も行っていた。もちろん、しかるべき供養は親族によって、それらが生身である間・・・・・・に済んでいたからもはや必要ない。自らの稼業に瀬良がなにがしかの痛痒を感じていたかどうかは分からない。
 どんな経路で伝わったのか、たとえ短命と分かっても何不自由なく暮らせる境遇は、いつしか貧しい農山村の子らの間で「御蚕様」と囁かれるようになった。「そこには明らかに羨望のトーンがあった」──。これは長田警部の聴き取りに対する当時の郷土史家の言葉だ。絹糸を吐き出す蚕のように、短い間でも王侯のように遇され満腹でいられることへの憧れが、忌まわしい運命への恐怖をも凌駕したのだろう。
 瀬良道彦は取り調べの一カ月後、自宅近くの山中で焼死体となって発見された。現場に遺書があり、頭から灯油を浴びての焼身自殺として処理されたが、動機その他に幾つかの不審点が指摘されている。
 
 実行犯四人はその後それぞれに社会で成功を収め、いずれも戦後長らくまで天寿を全うした。国政選挙に出馬し代議士を務めた者もいる。そして現在も彼らの一族は政財界で重きを成している。四人のうち一人の曾孫宅が、横浜市内の私がかつて在勤した署の管内にあるので先日立ち寄ってみた。
 五百坪はあろうかと思える敷地に高い塀をめぐらし、防犯カメラを設置した鋼鉄製の門扉は固く閉ざされていて、塀の向こう側は森のように折り重なる木立しか見えない。そして表札の類はどこにも掛けられていない。門の内側は外界から隔絶された別世界のような静寂の中にあった。
 いずれにしても、そこは捜査できる場所ではなかった。彼らは法の追及が及ばないところへ去ったのだ。真冬の寒気の中で立ち尽くしているわけにもいかず、私は早々に引き返した。
 表面だけを見れば、津川と瀬良の死を経て悪弊は絶たれたかに見える。それをもって津川の死は無駄ではなかったと評価できるかもしれないが、恐らくは堰によって流れを変えられた水脈が別の場所へ移動したか、一層地下深くに潜ったに過ぎないのだろう。

 まだ未解明の部分が残っている。四人の男に津川殺害を命じた者、すなわち主犯は誰なのか。これは予感だが、たぶん遠からず明らかになると思う。

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