義理人情による解離性の事故について


愛着形成がまだされてない赤ちゃんは義理人情で絆を結ぶ。義理人情による絆は受けた恩に報いるというような契約風の関係になる。それは明文化されたものではない為、判断は各個人の裁量に委ねられ、曖昧なものとなる。すると疑いがかからないようなはっきりした行動を取らざるを得なくなり、相手の恩に即見返りを与えるという形態になる。断れば裏切りとみなすという圧力は無言の命令として魔眼として働く。

相手にとって長期的に見たら損になるような事でも親切をしなければという思いに駆られる人と、相手の恩義に報いなければという使命感により必要のない親切を断れない人がいる場合、間で義理人情の義務が働いているため、そこに赤ちゃんの関係がある。これは親しい間柄でない他人間で起こる。
この事がある場面に濃縮されて発現する例を挙げる。
直進車が、対向車が来ているのに右折車に道を譲り、右折車は車が来るか来ないかのギリギリのタイミングで右折する場合である。安全確認よりも義理を通す事が優先されており、運が悪ければ事故となる。もしそうなったら見かけ上は直進車が危険を承知で道を譲り、右折車は罠にかかり、対向車は嵌められたかのような形になる。しかし右折車も危険をわかっていたとなると本当の巻き添えは対向車となり、疑い深い人なら仕組まれたと考えるだろう。直進車は優しさのつもりでも、それが親切を強要する強迫観念によってなされた判断のために、仕掛け人をやらされるはめになった。もちろん誰も悪くはなく、安全よりも義理人情を優先させる道徳観が根付いた素地があるからである。この義理人情は人々を捕え、良かれと思ってやったことを裏目に出させる真の黒幕である。つまり、気を遣うと相手に油断させるということ。相手を安心させて隙を作らせてしまい、相手が気を抜いた時に憂き目に遭うという一連の流れがワンシーンに凝縮される。安心させておいて後で食べる話といえば日本昔話のヤマンバ、グリム童話のヘンゼルとグレーテルがある。真の黒幕は誘い出されたものを食べてしまうのである。よって全体を見て相手と自分の安全を確保できると判断できる時以外は義理人情で親切をしないことである。気を遣われる方は無力でありこちらが相手の命運を左右する事になる。これは現場である。

この現象は条件が揃えばいつでも再現される。何も考えずにこの現象に遭遇した場合、十中八九は流されるままに、事故には至らないとしても前述した過程❨親切の義務→親切への義理→親切が裏目に出る❩を辿るだろう。
ということはこの決まったパターン、仕掛けが常にそこらじゅうに存在するが見えない状態であり、このパターンは人物や物を介した一連の過程を通してしか体験できないので、ある一定のからくりそれ自体として存在する精神体、幽霊のようなものだと言える。この精神体に惑わされるなら、これは霊障である。

この霊障を回避するには意識的に取り組む必要がある。まず義理人情の関係を緩和する為に共通の理念を持つという方法がある。例えば“安全優先”を理念とするなら、安全の為の行動をするうえで、親切をする/しないで恨んだりはしないという条件に合意した事になる為、行動が一律化され、ありがた迷惑の霊障はなくなる。しかし理念に従うという方法は自己暗示の部類なので結局気合でどうにかしようとする根性論と変わらなくなるし、あまり実際的ではない。
もう一つは、「◯◯の場合はこうする」というような手順を定めておく方法である。そうすることで動作はカクつくが行為を以て対処するためより効果的である。

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