「道元・良寛研究」無為自然、任運騰騰ということー道元さまと良寛さん

道元・良寛研究1

無為自然ということ、任運騰騰。良寛の生き様です。
何も持たない、何もしない、何も考えない。真実の生命はそこにある。
今、ここにある。
ここに気づくことの大事さ。
目覚めること。
非思量。今を切に生きる。今、今、今と間髪を入れずいきる。
前後際断、瞬間に生きること。一日一日を死にきること。
遊び戯れて生きること。遊戯三昧。
無為自然とは、無心・無我の三昧、遊戯三昧に生きることである。
諸法実相無私の生き方ができるのである。

良寛は道元を生きた人です。
良寛に「永平録を読む」という道元讃嘆の詩があります。
良寛は、無心・無邪気に子供と戯れた。
花と蝶が無心に戯れるように。
道元は身心脱落の語で悟った。只管打座で仏作仏行を実践した。
良寛は道元さまを尊敬し、道元を生きた。
唯務坐禅と常乞食行で生きた。まことに、無為自然、任運騰騰大解脱の人であった。
素晴らしいこの二人の僧を研究していきましょう。

道元・良寛研究2
道元さまは、8歳の時にお母さまをなくされました。
その悲しみは如何ばかりであったことでしょう。
その慈母の死に、立ち昇る線香の煙を見て、人生の無常を強く感じ、仏門にはいり、母上の菩提を弔う決意をされました。
道元さまは、比叡山で修行ののち、正伝の仏法を求めて宋に渡りました。
そこで正師天童如浄に出遭い、「身心脱落」し、悟りました。
道元さまは、帰朝し唯務坐禅、只菅打坐の道を歩まれました。
坐禅すれば、仏陀釈尊の教えが正しく理解できるとの思し召しです。
誰もが皆仏性を有しています。誰もが皆、仏陀釈尊の智恵徳相を有しています。誰もが無上菩提を得ることができる。仏陀釈尊と同じ境地に立てるということです。天地と吾と万物同根です。宇宙一杯の生命と自己は一如でつながっています。自己を忘れて、天地になりきる。自己を忘れて、宇宙一杯の自己になりきる。非思量。無所得、無所悟の坐禅です。今、今、今の生活です。日々脱落し絶対自由の生活です。
なんと有難いことでしょう。

先ず、静かに、黙って、座りましょう。
ただそれだけで良いのです。

一日座りぬいてみれば、変わるものと変わらないものがわかります。
変わるのは外の世界です。空っぽの鏡に映る影像です。それは縁起で生じ、縁起で滅し消えていく世界です。猫が目の前を通りすぎてゆく世界です。障子窓に「蝶の影さす」世界です。一本の線香が消えゆく世界です。全ては寂滅相です。「枯れ葉が落ちていく音のする」世界です。「裏を見せ表を見せて散る紅葉」のせかいです。
「まそかがみ手に取りもちて今日の日もながめ暮らしつかげとかたちと」(良寛・蓮の露)

変わらないものは、いつでも、今ここにあります。
10年後も、今ここにあります。
それは、仏性です、自性清浄心です。不生の仏心です、本来の面目です。
虚空の鏡です。空っぽの鏡です。そして、それは誰でもがもっているものです。人人具性です。

それは我々の生まれる前からあります。
そして、我々が死んだ後にも変わ
らずあります。
父母未生以前の自己です。
それを発見するには、道元さまは、坐禅が一番と言っています。
只菅打坐です。

道元さまは、こう言っています。
「仏道を習うことは自己をならふなり。
自己をならうことは、自己を忘れるなり。
自己を忘れるというのは、万法に証せらるるなり」と。
無我、無心、非思量となれということです。
自分を忘れ、そのものになりきることです。
自分を忘れ、無心で坐禅を続けていくと、
坐禅の方で教えてくれます。
自分を忘れると、宇宙一杯の仏たちが姿勢を正してくれます。
本来無一物なのに歓喜と満足感があります。
坐禅は安楽の法門です。
良寛が「双脚等間に伸ばす」と詩で述べた感じが分かります。

ただ、座ってみましょう。只菅打坐です。
この大きな功徳は測り知れないと道元さまはおっしゃっております。

道元・良寛研究3
 良寛さんは、任運騰騰・非思量・無我無心の三昧の
境地にどのようにして達したのでしょう。

唯務坐禅・只菅打坐からです。「虚窓の下兀坐す」と詩にあります。
道元さまは言いました。「諸仏如来、ともに妙法を単伝して、無上菩提を證するに、最上無為の妙術あり」「自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり」(正法眼蔵・弁道話)と。
「この単伝正直の仏法は、最上のなかに最上なり、焼香礼拝念仏看経を用いず。ただし打坐して身心脱落することをえよ。」
「仏祖の正伝は打坐のみ。」
「みなともに一時に身心明浄にして、大解脱地を證し、本来面目現ず。」
「究竟無為の深般若を開演す。」と。

坐禅すれば、そのまま非思量・任運騰騰、無心・無我の境地であります。
仏性は広大無辺、諸法実相、無私そのものであります。

坐禅の境地そのままで、自然とでてくる言葉が愛語です。
坐禅の境地そのままで、自然と出てくる智恵が無分別智、魔訶般若波羅蜜多・深般若(大智恵)です。禅定即智恵なのです。無心これ道なりです。

ただ、静かに、黙って座ってみましょう。
只菅打坐です。諸縁を放捨し、一切を放下します。

道元・良寛研究4
良寛は人生70有余年を振り返って、世間の是非・思量(妄想分別知)を見極めるのに飽き飽きした。残された宝は唯務坐禅・只菅打坐のみだったと雪夜露庵の詩にて述懐しています。
「回首す70有余年 人間の是非 看破すに飽きたり
往来の跡幽かなり 深夜の雪
一しゅの線香 古窓のした」と。
道元さまは、非思量(無分別知)が大切だとおっしゃっています。

非思量のところに真実がある。
思量は真実に達することがない。むしろ邪魔になる。
思考は、常に、「今ーここにーいる」ことから目をそらして、過去に落ちていきます。過去は思い返す必要はありません。欲望も、「今ここにいる」ことから目をそらして、未来のところに連れ去られていきます。未来に思いを馳せるひつようもありません。真実は、「今ここにある」のです。如実にあるのです。
非思量に達するには坐禅がよいのです。

そこは、達成すべきものは何もない。既に達成されている世界です。
何も所有することが必要もない。すでに所有している。無所得の世界です。
真理は所得できない、私物化できないのです。手渡しできないのです。
今ここに十分ある世界です。至福がある世界です。

一日黙ってしずかに座っていると、いろいろなことが分かります。
生きていくには、覚醒と呼吸が大切です。
一日食べなくても生きていけます。水さえ飲んでいれば、90日生きられます。疲れたら眠り、のどが乾いたら水をのめばいいのです。飢え乾いたら食べなさい。
 
呼吸を意識する。ただ座り、ただ呼吸を意識する。
入って来る息に意識を向けてください。出ていく息を意識してください。
ただ座り、ただ息の出入りを意識する。ただそれだけです。
最後には、息は自然に任せてよいのです。
ただ、黙って、静かにすわりましょう。それだけでよいのです。


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