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祖母を亡くして、今、思うこと “母との関係に起こった変化”

皆さん、こんばんは!えりです。
 
本日も、お越しいただきありがとうございます✨
 
いつもご覧くださる皆さん、スキをくださる皆さん、そして、今回、初めて出会ってくださった方、皆さんのサポートに、私は救われています。
 
さて、今回で、記事投稿も、4回目を迎えました!
 
一先ず、皆さんとのお約束、3回目の山場を超えることができ、ほっと一息ついているところです。
 
皆さんは、何か少しでも続けられることが見つかりましたか?
 
どんなに小さなことでも構いません。
 
続けること自体に意味がありますから。
 
それに、自分では気づいていないだけで、きっと何かしらはあるのではないでしょうか?
 
何もできていないと、自分を責めてしまうときは、一度、現状を整理することで、気持ちや思考、行動をクリアにしてみませんか?
 
そうやって、自分が頑張っていることを、ひとつでも認められると、少しずつ自分が愛おしく思えてくるはずですよ。
 
ですので、小さな努力を、自覚し、工夫を加えていくだけで、きっと風向きも変わってくるのではないでしょうか!
 
私の場合は、“毎朝、きちんと洗顔すること”を頑張っています 笑
 
「え、そんなの当たり前じゃない?」と思われる方も、いらっしゃるかと思います。
 
確かに、“洗顔→着替え→メイク→ヘアセット”この一連の流れは、朝のルーティンとして、定着したものですよね?
 
ですが、うつ症状が重かった頃というのは、そんな人間生活を営むうえで、最低限の習慣、それすらもままならない状態でした。

そんな中、私は、“毎朝の洗顔”というハードになってしまったタスクをこなすために、出かける場所をつくったり、完璧主義をやめ、適度に手抜きをしたりといった、自分なりの工夫を取り入れてみました。
 
こうして、“洗顔”という行為へのハードルを極力下げ、ゆる~い圧力をかけることで、徐々に、行動への抵抗感が減っていきました。
 
そして、今では、朝起きたら、自然と、洗面所に向かうようになりました。
 
勿論、未だに、腰が重く感じるときもあります。
 
ですが、以前のように、まるで、お尻に根っこが生えてしまったかのように、身体が動かないとうことはなくなりました。
 
気が乗らないときは、ご機嫌な音楽をかけてみたり、自分の肌に合った洗顔フォームを使うようにしたり、スキンケアのついでに、マッサージをしてみたりと、自分の機嫌をとりながら、とりあえずは、鏡の前まで行ってみるようにしています。
 
“毎朝の洗顔”をルーティン化できたことにより、私の心身には、小さな幸せがもたらされました🍀 
 
毎朝、丁寧にスキンケアをすることにより、肌の状態が安定し、自然と、気持ちも前向きになりつつあります。
 
肌の調子が良いと、それだけで、ハッピーになれますよね!改めて、セルフケアの一環としての美容が、私たちの心身に与える影響を、つくづく実感している今日この頃です。
 
また、スキンケアを、一から見直していく過程で、自分の肌質について、研究する機会を得られました。
 
たかが、“洗顔”と思われるかもしれませんが、このささやかな習慣は、私に、“自分を知る”という副産物まで、もたらしてくれたのです。
 
ということで、私のエピソードを挟ませていただきましたが、皆さん、改めまして、日常or職業生活において、無意識にできてしまっていること、見えてきましたか?
 
「“洗顔”、そんなことでもいいのか!?」と、少しはハードルが下がったのではないでしょうか?
 
日頃から、“自分のできること=プラス面”を探し、それを伸ばす小さな努力を積み重ねることで、「私たちの生活は、きっと、少しずつ豊かなものになっていくはず!」と私は信じています🌼 
 
さらには、思わぬ発見もあるかもしれませんよ。
 
ということで、ここまで、お付き合いいただいた皆さん、耳を貸してくださり、ありがとうございます!
 
前置きは、この辺りといたしまして、本日も、メインテーマに入っていきましょう!
 
今回は、少しイレギュラーということで、いつもの投稿とは、毛色の違った内容になるかとは思いますが、皆さん、どうか気楽にお読みくださいね~🍃 
 
これから、お話しさせていただく内容は、個人的で、少しセンシティブなものになりますので、辛いお気持ちになられた方は、読み進めるのを、そっとおやめになっていただけますと幸いです。
 
可能な限り、皆さんを不快なお気持ちにさせないよう、言葉選びなどは慎重に、お伝えして参りますので、どうぞお見守りください。
 


“親も、まだ未熟な私たちと同じ人間”で、“神様なんかじゃない。”
~一人の人間として受け入れ、一番近い他人として接する~

生まれてから、ずっと傍で暮らしてきた祖母が亡くなってから、早、一か月が経とうとしている。
 
先日、祖母の供養の一環として、家族で行った十三仏参りで、訪れた寺院の澄み切った空気に、心が浄化されるような新鮮さを感じた。
 
最後に、巡拝した寺院に咲いていた梅の花が、ちょうど色づき始めた淡いブルーの空によく映えて、柔らかなグラデーションを成していた。
 
この日は、“冬晴れ”という表現がしっくりきそうな陽気で、一日、穏やかに晴れていた。
 
頬に当たる風は、ひんやりと冷たいが、日差しは暖かく、咲き始めた花々からも、どことなく春の息吹を感じる、そんな日和であった。
 
そんな新しい季節の足音に耳を傾けているうちに、センチメンタルな感情が押し寄せてきた。
 
そして、しばし、感傷に浸っていると、ある言葉が、ふと目に留まった。
 
“苦しいことから逃げてはならない 楽しいことまで遠ざかっていく”
十三仏参りの終着地として、最後に訪れた寺院の壁に貼られたその言葉に、私は、吸い込まれるかのように、その場から離れることができなかった。
 
一寸の交錯の後、身体から力が抜けるかのように、清々しい感情が自然と湧き上がってくるのを感じた。
 
そして、初めて、祖母の死を受け入れられた気がした。それと同時に、新たな決意のような気持ちが、自分の中に芽生えた。
 
こうして、心に静寂が戻りつつある今、改めて、祖母と共に暮らした時間、母との関係について、振り返ろうと思う。
 
それは、あまりに突然だった。
 
土曜の朝、入院中の祖母の見舞いに行き、熱を出し、いつもより、少し苦しそうな赤い顔をした祖母に、水を飲ませ、「また、すぐに来るからね。辛かったら、お医者さんに言うんだよ。」と言い残し、病室を後にした。
 
本当に、いつも通り。また、すぐに会えると思って。
 
しかし、その次は、二度と来なかった。
 
実質、それが、私にとっては、祖母と交わした最後の会話となった。
 
2年前の冬、「足がよう立たんから」と、訴え、長年、熱心に続けてきた畑仕事へ行かなくなってしまった祖母は、どこか悲しげだった。
 
春には、祖母が頼りにしていた兄夫婦が、立て続けに亡くなり、気落ちしているのが、目に見えて分かるようであった。
 
それからは、徐々に、家族との会話や、外出する日も減り、塞ぎこみがちになっていった。
 
若い頃、得意で好んでいた裁縫や、花にも、あまり関心を持てないようで、日課であった毎朝の墓参りにも行かなくなってしまった。
 
とにかく、全てのことに対して、意欲が湧かないといった様子であった。
 
そんな日々が、1年ほど続き、また、新しい春を迎えようとしていた。
 
「梅の花が綺麗だよ。今日は、良い天気だから、お庭の散歩でもしてみない?」という私の問いかけに、「こうしているほうが楽だから。」と、虚ろな目で、一言呟いた祖母は、この日も、ベットに横たわったままであった。

そんな中、祖母の心身の変化に、気を揉んだ母親の提案により、デイサービスを利用することとなった。
 
こうして、週に1度、出かける習慣はできたものの、相変わらず、人との交流は億劫に感じるようで、帰宅後は、数時間眠り続けていた。
 
どうしても、内にこもりがちな祖母を、何とか外の世界に連れ出そうと、ケアマネージャーさんの力も借り、デイサービスにも、週2回、通うようになった。
 
当初は、出かけることを拒絶していた祖母ではあったが、次第に、顔見知りもできたらしく、家族との会話も増え、笑顔を見せるなど、少しずつ差し込み始めた光に、私たち家族は、ほっと胸を撫で下ろしていた。
 
一先ずは、順調に進んでいるように見えていた祖母であったが、ここで事態は急変する。
 
それは、昨年の7月のこと。
 
それまで、ご飯だけはよく食べていた祖母が、朝、起きて来なくなったのだ。
 
最初は、「夏バテだろう」と、皆、高を括っていたが、秋になっても、祖母の食欲は戻らず、状態は、悪化の一途をたどっていった。
 
初めは、朝ご飯を抜いて、昼からは、しっかりと食べてはいたものの、次第に、お昼を回っても出てこなくなり、母親に促されて、夕食にしぶしぶ出てくるといった状況であった。
 
そして、祖母には、食欲不振に伴い、認知症の症状も現れ始めた。
 
「まあ、○○さんったら、こんなに立派な家を建てて、お金がたくさんあるのね。」
「10階建てよ。」
 
ある日の午後、裏にある親戚の2階建てのコンパクトな家を見上げながら、目を丸くして、祖母は、声高に話し始めた。
 
それからは、日ごとに、祖母の認知症の進行は進み、食欲不振に加え、排尿や歩行の問題も立て続けに現れ、支援の手が回らないスピードであった。
 
こうして、晩秋には、完全に寝たきりの状態で、唯一の命綱は、栄養補助食品のメイバランスのみ、という事態に陥ってしまった。
 
そして、昨年末、毎年、家族で行う餅つきの準備で、忙しない早朝、遂に、祖母は倒れ、末期のすい臓がんの診断を受けることとなった。
 
日を追うごとに、衰弱し、生気を失っていく祖母の近くにいながら、私は、何一つしてあげることができなかった。
 
一番、近くで支えてきた母親と祖母の関係は、凍てついた真冬の湖のように、私たちが、立ち入ることはできない根深いものがあった。
 
二人は、お互いに、傷つけ合い、最後まで、意地を張り続けた。
 
祖母は、母の気持ちを汲み取ろうとはせず、母の努力や献身を、認める姿勢を見せることはなかった。
 
一方の母も、そんな祖母に対し、哀しみ、そして、怒りをぶつけるだけで、許すことができないまま時間が過ぎていった。
 
母が、咀嚼が難しくなった祖母のため、試行錯誤しながら、用意した晩御飯を頑なに拒否する祖母。
 
そんな祖母に、罵声を浴びせ、無理やり部屋から連れ出そうとする母。
 
「痛い、痛い。なんて酷いことをするんだ!」と、抵抗を続ける祖母に、「こんなに、娘を苦しめるようなことをして、娘が可愛くないんやね。あんたは、地獄に落ちらい!」と、泣きながら、罵る言葉をぶつける母。
 
それでも、母は、祖母の回復を願って、最後まで、もがきながらも、献身を続けた。
 
私は、祖母と母のために、何ができただろうか?
 
口数が少なくなり、塞ぎこみがちになっていた祖母を、
 
「散歩に連れ出したらよかっただろうか?」
 
「海辺や、緑の中を歩いたら、少しは気持ちも晴れたかな?」
 
「もっと話を聞いてあげたらよかった?」
 
「もっと母親のサポートができていたら、、、。」
 
など、思い返すと、後を絶たないほどの後悔の念が、溢れ出てきた。
 
そして、この経験から、私は、自身と母親との関係性において、ある重要なことを学んだ。
 
それは、“まずは、自分を。そして、相手を許すということ”。
幼い頃から、傍にいて、成長を見守ってくれた親という存在。
 
お腹の中にいたときは、繋がっていたし、私を生んでくれたのだから。私のことは、何でも分かるでしょ?」
 
と、まるで、全知全能の神であるかのように、私たちは、ときに、親を絶対視してしまうことがある。
 
だけど、そんな親も、私たちと同じ不完全な人間であり、違う価値観を持った他人なのだ。
 
だから、決して、100%、全てを理解し合えることはない。
 
だが、“理解しようと歩み寄ること”はできる。
 
その姿勢が大切なのではないか?
 
たとえ、どんなに近しい間柄でも、“自分自身のことを相手に伝える。そして、相手のことも理解し、受け入れようと、努力する。”このコミュニケーションを怠ってはいけない。
 
当たり前だが、とても難しい、“人間関係の原点に、立ち返るきっかけ”を、祖母は、私に与えてくれたのだろう。
 
さて、さて、本日のお話も、この辺りで、おしまいとさせていただきましょうか。
 
皆さん、長らくお付き合いいただき、ありがとうございました🌛 
 
今回は、いつもとは違う語り口に、パーソナルな内容ということで、戸惑われた方、過去を思い出して、辛い気持ちになってしまった方も、おられたかもしれません。
 
ですが、私にとって、“大きな一歩を踏み出す決心をさせてくれた”祖母からの大切な贈り物です。
 
皆さんに、この場をお借りして、そんな祖母の教えを、シェアさせていただきました。
 
皆さんも、大切な人との間に溝を感じてしまったときは、ぜひ、自分のプライドは、一旦、横に置き、一歩、歩み寄ってみてください。
 
では、では、本日は、この辺りで~👋 
 
ゆっくりお休みくださいね🍵 
 
また、次回、お会いしましょう~!
 
 

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