夏目漱石「草枕」を読む

一人の歩行者がいる。

もしも、その男が、現実から自由を取り上げられていると感じるならば、どのような抵抗が可能か?もしも、敵に包囲された兵士であるならば、ありったけの銃弾で、目の前の具体的な敵を打ち倒すにちがいない。だが、敵が具体的な存在でない場合(肉体をもった存在でない場合)はどのような抵抗の手段があるのだろう?

ちくま文庫版「夏目漱石全集3」の、吉田精一の解説にもあるとおり、「草枕」は東西の芸術論を溶かしこんだ作品と読める。主人公は、絵描き、詩人となって、浮世の歩行者となっている。だが、明治時代は、戦争の季節だ。いざというときには死ななければならない、という心理的な圧力が、日本人にはあったはずだ。主人公は、おそらく戦争へ行く対象ではないのだが、同胞たちが死んでゆくことに対して後ろめたさを感じているはずだ。

詩人に憂いはつきものかも知れないが、あの雲雀を聞く心持になれば微塵の苦もない。菜の花を見ても、ただうれしくて胸が躍るばかりだ。蒲公英もその通り、桜も  桜はいつか見えなくなった。こう山の中へ来て自然の景物に接すれば、見るものも聞くものも面白い。(略)
しかし苦しみのないのはなぜだろう。ただこの景色を一幅の画として観、一巻の詩として読むからである。画であり詩である以上は地面を貰って、開拓する気にもならねば、鉄道をかけて一儲けする了見も起らぬ。

ちくま文庫 夏目漱石全集3
P.14

心理的な圧力に対して、どのような抵抗の方法がありうるのか。主人公が選んだのは自然の風景を「一幅の画」「一巻の詩」として編集し、みずからの、こころを楽しませる、という方法だった。金儲けなんて、戦争なんて、馬鹿馬鹿しい。と主人公はおもう。社会への怒り、同胞たちが死んでゆくやるせなさ、といった感情を、芸術や自然のちからを借り、和らげている。もっと戦闘的な感情かもしれない。社会(具体的な肉体を持たない存在)に対して、芸術という弾丸を打ち放し、抵抗しているのである。


気が向いたら、また書きます。


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