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掌編小説 「指輪物語」


 マグマとなったカレー鍋の中で、じゃがいもやニンジンが踊っている。
 立ち上る香りが胃袋を刺激する。

 おたまですくったカレーを、真白なご飯の上にかける。自分のものはご飯とカレーをお皿に半々で盛る。そして彼の分はご飯の白が見えないように上からかける。

「カレーできたよ」

 キッチンから声をかければ、寝っ転がって本を読んでいた彼が「うん」と応えて起き上がる。

 無言ながらテーブルの上に散らかった雑誌やリモコンを片付け、カレー皿を置く場所を作ってくれる。

「今日はひき肉のカレーにしたの。金欠だから」

 茉莉は畳に敷いた座布団の上に腰を下ろした。

 カレーは大好物だ。簡単に作れるのに味わいは深い。以前は凝ってカレールーも自分で作っていた。だが社会人になってからというもの、料理を楽しむ余裕はなくなり、お腹が空くから作るという義務と必要にせまられた作業になってしまっている。

「いただきます」

 彼が律儀に手を合わせ、頭を下げる。
 茉莉はそれに習って手を合わせ、すぐにスプーンをとって食べ始める。

 今日のできは上々。ピリッとした辛さと口あたりのまろやかさが同時に感じられる。辛いもの好きの自分のためにはスパイスを足し、甘党の彼のためにカボチャのペーストを入れてみたのだ。
 これはいい。彼の意見も聞いて気にいっているようなら、カレーレシピの一つに決定だ。

 チラッと目を上げて食べている姿を確かめると、特に気に入ったという顔もしていないが、スプーンは止まらない。ガツガツと食べている。

 彼と付き合い始めてから、早六年が経った。一緒に暮らし出してからは四年だ。

 これだけ一緒にいると、緊張感などない。トキメキもほとんどない。
 こんなとき、「ねぇ、おいしい?」と可愛らしく尋ねるなんてこともありだとは思うのだが、もうそんなキャラが似合わないと自分でも悟っている。恥ずかしくて「ねぇ」の言葉すら出てこない。きっとそんなことをしても、彼だってびっくりして目を丸くしてしまう。あるいはわたしの努力にも気付かずに、ただ「うん」と無感動に頷くだけだろう。それが彼だ。

 彼はいつも言葉が足りない。それでいて、仕事が中学校の相談員の先生だというのだから、どんな顔をして仕事をしているのだろうと不思議でならない。ちゃんと悩める若者にアドバイスを与えられるのだろうか。

「あ、そういえば」

 口からニンジンのかけらをこぼしながら、彼が片尻を持ち上げる。

「ちょっと、カレーの染みは落ちないんだから、こぼさないように食べてよ」

 まるでお母さんのような小言だ。

 それにしても、彼の行儀作法はなっていない。箸の持ち方からなっていない。何度か矯正してやろうと指導したこともあったが、すぐに諦めた。うまくできないと怒られることを学習した彼が、スプーンで食事をし始めたからだ。味噌汁をスプーンで食べる姿に、そんなに嫌がられるなら、文句は二度と言わないと誓ったのだ。

 箸に復帰した彼は「別に怒られるから嫌になってスプーンで食べてたっていうんじゃなくて、もともとスプーンで食べる方が楽で好きなだけ」と言って笑った。

 言葉が少なくて反応は薄いけれど、冷たい人ではないのだ。たぶん、茉莉にとっての一秒が、彼にとっての五秒くらいなのだ。茉莉は一秒後の反応を求める。彼は五秒後にその反応を示そうとする。現代の時間進行は、彼には早すぎるのだ。

 彼が着古したスエットの、ズボンの尻ポケットから取り出したものを、茉莉へと転がす。

 畳の上を転がって茉莉の座布団の横で止まったものは、濃いブルーのビロードで覆われた箱だった。手の平にのるサイズのそれは、女の子なら誰しもが、その中にあるものが何であるかを理解する箱であった。
 指輪が入るジュエリーボックス。

「何これ?」
「ん? 指輪」
「そんなの見ればわかるよ。なんで指輪なんて」

 それも、カレーを食べるついでに思いだし、大事に置かれた紙袋からではなく、尻のポケットから無造作に取り出し、心をこめての手渡しでもなく、床を転がされてやってきた指輪。まさかこれが、大事な意味のある指輪であるとは思いたくなかった。

 光沢あるビロードの表面に、擦り切れた畳の切れ端がしがみついている。
 箱を手にとって開けてみる。
 透明な宝石が、虫の墓場となった蛍光灯の下で光っていた。小さいがダイアモンドだ。

「まさか婚約指輪とか言わないよね?」

 彼はスプーンの上のじゃがいもを口に入れながら、口角を上げてほほえむ。

 そのほほえみの意味が分からなかった。そうだよの肯定なのか、それともじゃがいもがおいしかったのか。はたまたわたしの妄想がおかしいと笑ったのか。

 腹の底から、怒りの波動が伝わってくる。
 言葉にしてくれなければ、いくら六年も一緒にいたとしても、分からない。テレパシーを感じる能力なんてないのだから。

「ねぇ、指輪をわたしに転がしてくる前に、言うことがあるんじゃないの?」

 ダイアモンドの美しさが、見れば見るほど嘘になっていく気がして、ジュエリーボックスの蓋を閉じる。
 テーブルの上に下ろした手を見つめる。握り締めた手の中で、違和感を覚える高級なビロードの小さな箱。
 不意に涙が込み上げてきた。目をつむって発作のような感情を押さえこむ。

 もう結婚に憧れだけを持っていられる歳ではない。キレイなウエディングドレスに包まれ、麗しの華と称えられるのは、たった数時間の結婚式の間だけなのだ。その後に待っているのは、薔薇色の新生活などではない。いつもと変わらぬ日常なのだ。

 悟ってはいる。それでもプロポーズという瞬間には憧れがあったのだ。
 彼のような人間に、ロマンチックな演出なんてできるわけがないことは分かっている。求めてもいない。
 それでも、もっと適した時と場所、そしてタイミングは選べたはずだ。

 くやしさで震える茉莉の頭に、彼の視線がほんわりと注がれる。

「えっと、茉莉のカレーっておいしいよね」

 よりによってカレー。やっぱりじゃがいもがおいしくて笑ったのか。茉莉の握りしめた手のひらに、爪が食いこむ。

「うちのカレーって、こんなにじゃがいもとかニンジンが多いくないんだ」
「わたしがガサツなだけよ」

 刺のある言葉が口をついて出る。

「そうなの? でもうちのよりずっとおいしい。うちって母さんが死んでから親父か料理担当でさ、料理本を見ながら悪戦苦闘で作るんだよ。本の通りに二ミリ角とかに切ってさ。だからじゃがいもなんて溶けてなくなってる」
「じゃがいもが溶けるほど煮込めば、おいしいでしょう」
「そのはずなんだけど、まずいんだ」

 残りのカレーを食べきると、彼は茉莉を一瞥してから立ち上がった。
 どうやらお代わりを申し出たかったのだろう。だが茉莉の鋭い視線に、感じるところがあって、自分で盛りに行ったのだ。
 皿からこんもりと小山が見えるほどの大盛りだった。
 ニンジンが少なくて、じゃがいもばかりが盛られている。

「俺、ずっとおまえのカレー食べていたい」

 カレーの匂いにまみれたプロポーズ。

 婚約指輪を腹におさめたジュエリーボックスを、テーブルに置くことができなかった。自分の食べ残しているカレー皿と並べて、これ以上カレーの匂いにまみれさせたくはなかった。

「それでプロポーズのつもり?」

 下から睨みつけた茉莉の目から涙がこぼれた。可憐な涙ではない。恨みのこもった形相から流れた涙だった。
 さすがに鈍感な彼も、ホラー映画の恐怖シーンを目撃してしまった顔で固まる。

「どうせ、ロマンチックなプロポーズなんて、わたしには似合わないわよ。たいしてかわいくもないし、スタイルも良くないし、ガサツだし、気は強いし」

 ジュエリーボックスを握りしめたまま、足音高く立ちあがる。

「でも、わたしだって王子様に迎えられる日を夢見たことぐらいあるのよ!」

 唖然と口を開けている彼を残し、寝室へと走っていく。
 力いっぱいにふすまを閉め、鍵のかからない戸に精一杯の拒絶の気持ちを込める。

 自分はいったい何を言っているのだ。
 ベッドに腰を下ろしてうな垂れる。
 王子様って一体誰のことだ。自分はお姫様だとでもいうのか。
 恥ずかしさで、顔がヒーターになる。手をかざせば絶対温風を感じるはずだ。
 ジュエリーボックスをベッドサイドの引出の上に置く。毛足の長いビロードの上には、握りしめた指の痕がくっきりと残っていた。

 嬉しくなかったわけではない。彼が、結婚を考えてくれていたことはありがたかった。わたしのカレーを一生食べていたいと言ってくれたことも、実はちょっと胸が震えた。でも、せめて彼の態度は特別なものにして欲しかった。ちょっと緊張したり、こちらの反応をうかがう素振りをみせたり。まるで日常の一コマとして、簡単に忘れられるような扱いは嫌だった。

 引出の一番下の段を引く。その一番奥の、物に埋もれた一番底に、茉莉はくだらないと思いつつも捨てられないものを隠していた。
 プラスチックの蓋にヒビがはいったジュエリーボックスだった。それも、スーパーのお菓子売り場に数百円で売っている、偽物感たっぷりの大きなプラスチックの宝石がついた指輪が入った平たい箱。

 よくこれでお姫様ごっこしたなと思いだす。ピンクの宝石の指輪はシンデレラごっこのとき。黄色い指輪は親指姫のとき。ブルーの指輪は人魚姫。
 友だちと遊びながら、妄想の中では、金髪で青い目の素敵な王子様が手を差し伸べてくれていたものだ。「お美しい姫。わたしと結婚してください」と、手の甲にキスをしてくれる。

 キッチンから、食器を片付ける音が聞こえてくる。
 怒った彼女を追いかけることもなく、冷静に家事なんかしている彼が憎らしかった。

 取り乱してみっともないのは、いつも自分なのだ。
 やがて水音が止み、彼の足音がふすまの前で止まる。

「茉莉、入るよ」

 ふすまが開けられるよりも先に、頭からふとんを被ってふて寝をする。
 何も言わずにベッドの横に立った彼を感じながら、何を言うつもりなのかと聞き耳を立てる。

「こんな安物の方が好きだったの?」

 彼が何を言わんとしているのかが分からず、布団から顔だけを出す。
 彼の手には、お菓子売り場の子ども用指輪の箱があった。

「そんなわけ!」

 怒りに任せて叫べば、「そうだよねぇ」と気の抜けた顔で彼が笑う。

「茉莉は何を怒っているの? もしかして俺と結婚なんてしたくないとか?」

 突っ立ったまま、彼が問いかけてくる。

「そんなんじゃないよ」

 どうしてわかってくれないのだろう。こんな普通の女の子の気持ちを。
「言ってくれないと分からないんだ。俺って鈍いからさ」

 茉莉は言いかけた不満を固まらせ、喉の奥に押し込んだ。

 彼は言葉が足りない。でも、わたしも言うべき言葉を伝えることがなかった。余計なガラクタの言葉の中に、ほんの一滴の気持ちをちらつかせ、感じとってほしいと待っているだけだった。彼が鈍感だと分かっていながら、分かってくれるはずだと信じ込んでいた。

 自分の気持ちは、溢れ出している湧水みたいで、自分にはよく分かる。でも彼には見えないのだということが、分かっていなかった。
 自分も、彼の気持ちは言葉にしてもらわなければ分からない。そしてわたしの気持ちも、言葉にしなければ彼に伝わらない。

「その指輪で、小さい頃、よくお姫様ごっこしてたの。キレイに着飾ったお姫様のわたしに、王子様が片膝ついて、手にキスをしてくれて」
「お姫様ごっこか。茉莉も女の子だったんだね」

 だったと過去形が気に食わないが、確かに今の自分は女の子とは程遠い。
 彼が大きな緑色の宝石もどきをつけた指輪を手に取る。
 子供の頃、エメラルドだと思い込んでいた指輪だった。
 彼がその指輪を茉莉の額の上にちょこんと置き、歯を見せて笑う。

「茉莉姫さま。俺のお嫁さんになってください」

 無造作に近づいた彼が、茉莉の頬にキスを残す。
 キスは手の甲にするのだし、お嫁さんではなくお妃さまだ。そしてなにより間違っているのは額の上の指輪だ。指輪は指にはめるもので、額に置くものではない。

 仕方なしに自分で額の指輪を手に取り、自分で左手の薬指にはめる。
 彼がプロポーズの返事を待って、幸せそうに目を細めている。
 元々目が細いのだ。そんなにしたら、何も見えなくなるだろうと言いたくなる。

 でも、彼はちゃんとわたしの思いを遂げようと歩み寄ってくれた。だから今度は、わたしが彼に思いを伝えなければならない。

「じゃあ、このおもちゃがわたしとあなたの婚約指輪ね」

 意地悪くムスっとした顔のままで言う。

「え? じゃあ、俺が買ってきたダイアモンドの指輪は?」
「あれはカレーの契約指輪よ。これからもずっと、あなたのためにカレーを作りますって言う」
「カレー?」

 彼が情けなく眉を下げる。
 彼にはとっては大金をはたいて買った指輪だ。それを婚約指輪でなく、カレーの契約指輪にされたのだ。
 まいったなと頭をかく彼を笑いながら、布団の中に隠した安っぽい子ども指輪を眺める。

 ウエディングドレスを着た自分は、いったいどっちの指輪をつけているのだろう。
 妄想の自分が、白く長いウエディングドレスの裾をなびかせて回転する。その指先にあるのは、大きな緑色の指輪だった。

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