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「凶行」にまつわる日記

・7月8日(金)
あの時、事務所でパソコンに向き合っていた。親との間に発生しそうな用事が頭から離れず、仕事への集中が途切れがちだった。

職場の一人が「凶行」の話をし、事務所全体がざわついた。昼前。私は「誰が」襲撃されたのか聞き取れず、ニュースを検索して、驚いた。

※注1 以下、最近発生した悲惨な事件についての記述を含みます。
※注2 本文章の文責は「K」となります。(『民主耕論』には書き手が二人おります)

昼休みの頃には、犯人像についての予想が、職場でも、友人とのラインでも、色々と行われていた。

午後は現場に行った。晴れた暑い日。しばらく新しいニュースは入らなかったと記憶している。待機時間中に携帯を見ると、Twitter上で(断定調の)憶測や暴力反対のメッセージが溢れていた。

夕方。現場からの帰りに、ラジオで、亡くなられたという情報を聞いた。繰り返し報じていた。「政治家として駄目なところがあったとしても、撃って殺すのはよくない」と職場の人が言った。
ラジオパーソナリティも仕事だから、ニュース以外は娯楽的な内容を楽しげに話さざるを得ない。どのような気持ちでラジオをやっていたのだろう。本当に大変な心理状態だったのかもしれない。

夜遅めの時間に実家へ帰った。夕飯を食べながら、スムーズに親との用事は話せてしまい、落ち着けてよかったと思った。用事の後は「凶行」について色々な話をした。

・7月9日(土)
実家で迎えた朝。携帯を見ると、Twitter上で三つの論調が確認できた。
①     暴力反対。政策上の違いは選挙や論議で戦わせるべき。こういう時こそ選挙に行こう。
②     昨日以上の断定調の憶測。
③     批判と誹謗中傷や悪口を混ぜこぜにして、実質的に民主主義を否定している意見。

①     は正しいという他無い。②は、これこそ憶測だが、「二つの檻」に閉じ込められた人達が
呟いていると思う。一つは政治的な話をできる繋がりがないため、自分の意見が孤立状態となり、ネット上に発信するしか無くなっているという「檻」。
もう一つは、ただでさえ閉塞感があり、意見表明が難しい日本で、緊急時でも無ければ真面目な意見表明ができないという「檻」。「檻」が閉じてしまうまでに、急いで意見を組み立て、事実と解釈を混ぜてでも、垂れ流す。
③に対しては勘弁してくれと思った。民主主義に不可欠な、批判も含めた言論の回路が閉ざされ、暴力の回路が開かれた時に何が起こるのか。既に「凶行」が起きた後に、更に暗い未来予測はしたくない。

朝食を食べ食器を片づけたりした後、新聞を読んだら、③に誘導しようとする記述が散見され(具体的には行き過ぎた批判やヤジがあったから、今回の「凶行」に繋がったという話へ誘導しようとしていた)元首相の功績をひたすら称え、負の部分は最低限の記述に留める、という内容だった。
これは報道なのか。民主主義社会における言論なのか。よく聞く自由や民主主義というのは、実は張りぼてなのか。頭を抱えた。

その後、こういう時だからこそ、好きな作家であり、元記者の辺見庸氏の文章に触れたくなり、実家の車を運転して大きな書店に行った。たまたま見つけた『絶望という抵抗』(金曜日)を買った。佐高信氏との対談である。

昼ご飯を食べ、しばらく買った本をパラパラとめくった後、散歩して雑貨屋に行った。私とあまり年齢の変わらない店員さんとは、会うのがGW以来で、自然な感じで雑談が始まったが、やはり「凶行」の話題が出た。

店員さんはショックで、仕事が手に付かなかったという。父親が元首相の個人的なファンらしく、父親の気持ちを案じていた。(店員さん本人は支持でも反対でも無い)

自然と他の話に切り替わったが、「令和に入ってから世の中的には良い事が一つも無いですよね」という言葉が印象に残った。

店を出て、「今日は気温がマシだな」と思いながら、実家へと歩いた。歩きながら色々と考えた。頭の中に『絶望という抵抗』の内容が浮かんだ。そして、朝に見た論調である①(暴力反対)に対して疑問が生まれ始めていた。

確かに論理としては正しい。これを否定してしまうと、社会制度の基盤が壊れてしまう。選挙等の合法的な政治活動を粘り強く実践し、暴力と対峙していくべきである。しかし問題はそこでは無い。「本当に実感として暴力反対が語られているのか」という疑問だった。

『絶望という抵抗』は2014年出版の本で、丁度、第二次安倍政権が発足して少し経った頃である。辺見庸氏も佐高信氏も政権にはかなり批判的で、当時話題になっていた秘密保護法案や外交、歴史への姿勢を強く批判していた。
そして本の中で、辺見氏と佐高氏の間に意見の相違が発生する。
簡単にまとめると、辺見氏が、佐高氏も参加している反政権の運動を批判するのだ。批判の理由は「甘い運動であり、現状への認識が甘い。徹底的な抵抗が足りない。これでは現状追認も同じである」というものである。
何が甘いのか。徹底的な抵抗とは何をどこまでやればいいのか。ここでの辺見氏への意見を具体的かつ分かりやすくまとめるのは難しい。
しかし、「丁寧に決まりを守って小綺麗な運動じゃ政権を揺るがせないぞ」と言っているようには感じられるし、「肯定しない」としながらも、過去に日本で起きた、権力に対する暴力行為やテロ行為を全否定はできない、という態度を仄めかしたりもする。
暴力を肯定している事は無いが、ギリギリの表現ではある。

私は、辺見氏の表現を受けて、今回の「凶行」に対する暴力反対のメッセージがどれほどの強さを持ち得るか考えて込んでしまった。(今も考えている)

「凶行」は絶対悪であり、比較するべきでは無いが、政治自体が時に暴力装置となり得、それは安倍政権も例外では無かった。

森友学園の問題に関連する公文書改ざんで自殺した官僚。元首相が積極誘致した五輪で自殺した関係者達。(送り出し国側の事情も大きいが)借金で縛られて、暴力と単純作業に潰され、失踪、死亡した技能実習生達。入管の問題。元首相と関係の深い議員が性的少数者や女性へ許されない発言をしながら、党内で責任を十分に問われない事。

以上に挙げた事象の時、どれほど政治参加が進んだだろうか。どれほど危機感を持っただろうか。投票率がどれほど上がっただろうか。これらは暴力と全く関係が無かったのだろうか。

国際情勢が積極的に語られてこなかった日本社会でウクライナ侵略に対しては大騒ぎし、今は熱が冷めかけているように、政治に関心の薄かった日本社会が「凶行」に大騒ぎし、しかしその内忘れていくのではないか、という不安はある。実感も強さも期限付きだ。

政治参加の動機として、主に、①真面目で自分にも関係してくるし投票に行かなきゃという気持ち②政治に関心があり、調べたりするのが好き、以上二点があるのではないか。

若者の投票を促す時、言う事は①が中心となり、②は①を伝える際の補助的手段に留まる事が多い。「大事な事に対して、いかに分かりやすく説明し、関心を持って貰うか」という視点で、優れた活動や投票ガイドも多い。素晴らしい事と思う。

しかし、②を中心に据える事も必要では無いか、と私は思う。特に政治が時代とともにどう変化して来たか、という歴史的視点は、新たな感性へと開かれる実感をもたらす。

政治は暴力装置になり得ると書いたが、逆に長い暴力への抵抗として政治が使われ、権利獲得が為された歴史もある。抵抗した人々の思想を学ぶ事は、日々の生活での喜怒哀楽に溺れがちな感性を越えて、何十年、何百年の流れに耐えうる感性へと開かれうる。

『絶望という抵抗』でも、元記者であり、スクープを出したのがきっかけで、派遣されていた中華人民共和国から追放された辺見氏が、10年後に、日本で中国大使館の人から食事に誘われ「あの時は我が国が間違っていた。またいつでも中国に来てください」と言われた経験から、日本と中国の歴史感覚のスパンや考え方の違いを論じる話があり、読んだ私も数十年単位の時間に感性が開かれた気持ちだった。
(当然、辺見氏はこれを以て中華人民共和国を肯定している訳では無い。あくまで歴史のスケール感の話であり、個々の政策や人権問題にはかなり批判的である)

しかし、矛盾するかもしれないが、私はこうも思う。Twitterや新聞で「凶行」について触れた事よりも、親や友人、雑貨屋の店員さんと色々話した事の方が、小さな日常の一コマに過ぎないけれど、はるかに重いのではないか、と。

回り続ける地球の上に数え切れない生命が生まれ、交わり、別れ、歴史の厚みを築いて来た。

一人一人もまた、内面に矛盾する感情や理性を抱えながら、無数の出会いの中で、予期せぬ事も起きたりしながら、歴史を歩いていくのではないか。

翌日色々と用事があったため、夜に実家から現住地へ戻った。

・7月10日(日)
朝7時台に投票へ行った。日差しが強かった。

書籍案内:絶望という抵抗|週刊金曜日公式サイト (kinyobi.co.jp)



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