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なりたい自分

少し前に再会した大学の同期が、ある国際交流の仕事をしている。
彼女は文系学部で、そういえば学生の頃からその仕事に就きたいと話していたことを思い出した。
だから短期留学にも行っていたのだ。
彼女は大学時代からお付き合いしていた方と結婚していて、その方は私も知っている先輩だ。
旦那様は国の機関に勤務していて、国内の端から端まで転勤生活で、もう何年も一緒に住んでいないのだと聞いた。
子育てをしながらずっとやりたかった仕事を続けてきた彼女は、確かに学生時代からたくましかった。
夢を叶えて生き生きと笑う、あの頃の面影が残るスッピンの美人っぷりを見て、胸が熱くなって惚れ惚れした。

私は自分が「何者か」になれるなんて思ったことがなかった。
自分を買っていなかったし、夢などという贅沢品は持っていなかった。
自立して生活できる程度の収入が得られる仕事をして、絶対に借金を作らず、他人に迷惑をかけない大人になりたい、とは思ってきた。
絶対に父のような人間にはならない、という強い気持ちがあったからだ。
結婚願望がないから家が欲しいとは思えず、めんどくさいから出世したいとも思わなかった。
そんなひねくれた人間だから、今の肩書きもこれからのポジションも、私には過分なのだ。
その現実にため息がでる。
彼女のように「なりたかった自分」になれているという、満ち溢れた自分にはなれなかった。

でも、改めて考えてみると、人間として何かをクリアしたから部長になるわけではない。
たまたまそこにポストがあり、そこに誰かを置かなければならない時、目の前に私がいただけだ、別に私じゃなくてもよかったんだから気負う必要はない、という認識で明後日からの仕事をやっていくしかない。

異動する私に声をかけてくださった方の数人から「makiさんがあのポジション(4月からのポジション)になると思っていましたよ」と言われた。
その言葉の裏には「意外な人事と言う人もいるでしょうが、私は違いますよ」という気持ちが隠れている。
昔、一緒に仕事をしていた古い友人は、遠慮なく驚いてくれた。
客観的に見れば、「想定外ではないけれど、少し意外な人事」だったことくらい、自分がよくわかっている。
過分なのだ。

他人のネガティブに付き合うのはしんどい。
こういうことを話せる親友はいるけれど、できればあまり私のネガティブに付き合わせたくない。
noteという壺に向かってぐちゃぐちゃな思いを叫んで蓋をして、顔をあげたら気持ちも切り替えて「他人に迷惑をかけない私」として過ごそう。
それが今の私の「なりたい自分」なんだから。

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