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【エッセイ】玄関先の朝

noteを始めて、昔の自分が書いた文章 の所在を考える事が多くなりました。
学生時代の文章は、実家の自室のクローゼットの上の、奥に深い押し入れにあるはずです。

今日は、実家から持ってきた独身時代の日記帳を思い出し、それを探すことにしました。
「思い出箱の中、多分そこに入れてある」
そう思い、ほこりをかぶった箱を取り出して蓋を開けました。

「これ、持ってきてたんだ」
取り出したのは、Campusの原稿用紙帳です。

独身時代と新婚時代を跨ぐ頃、私は地域新聞にちょっとした日々の出来事を投稿していました。その下書きをしていたノートです。
あの頃私は、新聞の小さな枠に載りたくて、毎日あちらこちらを見渡したり、採用されそうな文章を書く事に必死になっていました。


当時、職場の玄関先を拭き掃除することが、私の朝のお仕事でした。
その一人の時間を使って木々を観察し、投稿できそうな変化を探しました。

モクレンの花びらが落ちて、ハナミズキの花が咲いて、冬には凛とした冷たい空気が流れて。
綺麗だけど、どこか定型文のような言葉たちが、そこには沢山ありました。
「定型文のようだけど、良くまとまっていて綺麗な文章」
今日の私にはそう感じられました。
五感を使い、過去の私が立っていたその場所をとてもよく描いています。

今日の私が、文章たちに連れられて、10年前の職場の玄関先に佇んでいる
そんな感覚にさえなりました。

箱には、下書きと一緒に、掲載された新聞の切り抜きが入れてありました。
それを読むと、さらに記憶がよみがえります。
掲載文には直しが入っていて、より綺麗に文章がまとめられています。
初めて掲載された日に、私はそれに小さく傷つきました。
それからは、直しが入らない文章を書くことに躍起になっていきました。
しかし小さな傷は、最後まで払拭されることなく積もり続け、いつ頃からか新聞の文章が他人に見えて、投稿を辞めたのです。

同じ意味を持つ言葉たち。

その文章は10年の時が経っても私のものではないと感じさせます。
他の人が選んだ言葉の連なりとはまるで違い、下書の定型文は、確かに私が選んだ言葉でした。

下書きと掲載文の両方を、他の誰かが読めば、きっと感じることは違うでしょう。
綺麗な文章は、すっと身体に入り、腑に落ちるものです。

しかし10年前に、私が居たあの場所と、そこにいる私へと導いてくれるのは、下書きの方であってほしいと今日の私は思うのです。


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