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物語を書いて、作家になりたいという気持ちについて

奇跡的に、早起きできた。
早起きか? そうでもない、普段より一時間くらい早いだけで、実際には時間がないから、ただの錯覚で、例えば五時とかに起きられたら、自由な時間ができる。
 今日は五時台におきて、うつらうつらしていた。起きたばかりのときは、スマホの画面から光を取り入れるのを、避けたいところだから、と思って、ざっとみるだけにして、本格的に起きてからカーテンを開けて、外を見た。

 今日の札幌は晴れ予報で、朝晩は冷えている。季節が一気にせまってきて、10月からは黒いタイツを職場に履いていく予定。

 上半期と下半期で、パンスト→黒タイツと区分けしている。黒いタイツはいろいろ便利で、足の肌の悩みが一切わからなくなる。本当にわたしは、いろいろ悩んでいて、もう今となっては、どうにもならない肌の質感とか、体毛とか、いろいろな傷痕とか、黒いタイツはそれを忘れさせてくれる。
 骨格だけは隠してくれないけれど……。それも、もうどうでもいいの部類に入ってきた。ここまでくるのに、三十年くらいかかってきた。
恐るべし、身体と脳。

 体に対するコンプレックスを考えるとき、例えばわたしにはあって他人にはない、わたしの美点によって、他人が傷つく(大げさだな、他のひとが、わたしなんて○○だから……自信ないよ……みたいな)ことは、あるのだろうか、と以前考えたことがあって、それは、例えば、

 『本郷(筆名)さんって、年齢より若く見られるよね』

と実際に、わたしの顔が、平面的で立体感に乏しく、目はこじんまり、眉毛と目の間隔がキーボードで言うところの、「TとB」「UとM」「YとN」の距離感で離れている。多くの人は、あとキー、一個分近い。
 それなのに、左目と右目の距離感は近い。 
 求心顔とか遠心顔とか、知っている人は女性に多いだろうが、まちがいなく前者で、たぶん眉と目・目と目、のバランスが相まって、子供のような顔立ちになっているのではないか。よく、丸顔の人は老けないとかいうけど、丸顔ではなかった。鼻の先っちょは、とがっておらず割と丸い。

 そして、目も瞼が重そうなタイプなため、世間的にいう美人タイプとは分類されたことがなく、だからといって、今まで何人かに言われてきた「かわいい」の言葉は、雰囲気や、実年齢と乖離している子供らしさを加味しての発言だったのかな。年相応に肌や、髪は老化しているけれど、ぱっと見幼く見えるのだろう。自分の外見が好きではなくて、写真もなるべくうつりたくないほど、わたしは拗らせているのだ。悩みすぎてひどいときは、醜形恐怖だった。誰にも見られたくない。家族にも。
病院には行ってないけれどきっと一種の病的さはあった。わたしの外見に関する自信のなさは、幼少期や少女期に由来するものだろう。

 「若く見えますね」
 下手したら学生と間違われたりして、三十代のはじめの時は「おや?」と、まんざらでもない時も、あったりしたのだけど、今はもう外見に悩まされたくないという気持ちが結構強い。外見を気にしないとかではなく、自分にとって良いか、悪いか、心地よいか、よくないか。

 少し脱線している気がする。年を取って、変わっていくことに対しての覚悟をもっとゆるやかに受け止めたい。年を取るなんて、ステレオタイプな言い方もしたくないけどね。
まだまだ、分析しているのだけど、この辺で。「朝の支度の時間はどこへ…….」もう、七時になるよ

 上記のようなわたしの実例を、他人が見聞きしたりするとする。その人は、年齢の割に法令線が濃く悩んでいたとする。だから、三、四歳上にみられたり、ディスられたりするから、わたしの扱いを見て傷つくのだろうか。と考えたのだ。
 その考えは、まとまらず終息したのだけど、市川沙央さんの「ハンチバック」を読んで、自分は広い世界を見ていると思っていたのが、恥ずかしくなるような気持になった。また後日、考えを記そう。

 あらゆる人を、傷つけないで生きることは無理に等しく、だからといって、自己表現をみずから押さえつけたり、誰かをかばって生きるのは驕りだと思う。

昨日、家族との帰り道にこんな話をした。
 外国の人(アジア系、きっとインドのほうだと思う)が、たぶん工場などに働きに行くであろう送迎バスの乗り場にしている所が、近所にあるのだけど、夜暗い中で、床に座って、異国の言葉が飛び交う風景が、興味深くて、家族はいつもその道を通りたがるのだが、「あのバスはどこに行くんだろうね。いつかついていってみたい」と言った。
いつも不思議だね、と言い合っているのだ。
 夜に迎えに来るバス。無言で乗り込む、他国の人。

 わたしは、「給料とか、どうなってんだろうね。安く働かされていたりするのかな」と答え、「そうなんじゃない?きっと。日本は外国の人の労働力でなりたっているって、社会の先生が言ってたよ」
 それから、わたしが「外国の人もそうだし、知的障害のある人の作るパン屋さんのことも、前に考えたんだよね」という話になった。もっと、調べて、よく知らなければと思う。安易に考えることは危険だ。
 話は進み、日本はもっと分け与えなければならない、と家族が発言した。

分け与える。

シンプルにそうだ。けれど。ここで、けれど、という横やりが必ず入るの現実だ。
おひとりさま、一個限りの卵を、何回も並んで買うのとか、簡単なことだけど、「みんな平等に」と思っても、できないしたくない、自分の中にもいろいろあることだ。
 ゴミ出しのルールが守られておらず、カオスになったゴミステーションの掃除を誰がするのか。見過ごすわたしは、悪人なのか。
 
 だから、なにかを徹底して生きていくのは、難しい話で、客観的に見ると間違っていることだって、たくさんあるのだ。


 小説を書くということは、恐れをなくしていくことを克服して、かつ繊細でいなければならないと思う。
 なんでも、発言すればいいわけじゃないと思うし、観察眼がなければ小説は書けないだろう。

 いろいろ、脱線してもう七時になってしまい、ゆで卵もゆでているし、洗濯も干して、夜楽しようと思っているのに時間、時間時間時間、ああ、時間が足りない。足りない。
 もっと、考え、もっと書く。結論などださないで、でも誠実に書いていきたいな。
 水曜日、面白い一日でありますように。


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