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ポジティブ人間と思われていた件について

さてさて、今回も昨夜思いついたタイトルで即興執筆していきます!

BARで飲んでると顔見知りが現れたので暫しの歓談。

すると、最近の私(iMitu)のショート動画がネガティブだから見るのが辛い的な。。
もっと、ポジティブな人だと思ってた的な。。発言を聞く事に。

さてさて、この件を掘り下げていこうと思います。

ポジティブな人ってポジティブだがゆえにネガティヴを考察する事が無いと想像。

世の中にはガサツ(ポジティブ)と繊細(ネガティヴ)の2タイプの人達が混在していて、ガサツと繊細が討論すると不具合が発生し、酒場でのイザコザが発生すると思っている。(社会の縮図なのかも)

私は自分のことを繊細だと思っているし、ガサツな人とは本質的な部分で分かり合える事が難しいとも思ってる。(そもそも人同士で分かり合えるのか疑問だが)

しかし、ガサツな人を理解しようとは試みるが、同意しようとしている訳では無い。だけど理解したいとは願っている。

では何故、私がポジティブだと思われていた件について考察してみる

そもそも、ネアカの人ってネガティヴでは無いからネアカだと思う。
(まあ当たり前だよな笑)

根暗の人って、根暗な自分が嫌だからネアカを世覆うタイプも居る。

つまり、世の中にはネアカと、ネアカ装いと、根暗の3種が存在していると思う。

私の場合、ネアカ装いだからポジティブ人間と思われたのか?おそらく正解。

私は、私自身が根暗で妬みと嫉みで絶望したく無いから、ネアカを装う処世術からくる不一致でポジティブ人間たと勘違いされたのだと思う。

今だに妬むし、嫉むし、結果が出ないことに絶望する日々。

だけど最近はこの絶望があるから力になっているとも思う。
つまり絶望もエネルギー。負のエネルギーもエネルギー。
(これどっかで書いたかな?)

プライドが今までこのエネルギーを邪魔してたと思う。
(負のエネルギーを見られたくないとか、他者からどう思われるかに執着していたからだ)

なので、プライドを外していく作業と、このノートで思想と考察をオープンにしていく事も意味があると思う。

負のエネルギーでこれからも突き進んでいこうと思う今日この頃。
足りない事に絶望する事で、既にある事に感謝できる様に

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