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私はしょっちゅう熱を出して学校を休む子だった。
日中は母とふたりで過ごす。
母は静寂を好む人でテレビのつけっぱなしを非常に嫌い、家事のBGMで音楽を流すこともしなかった。

ある時私が音楽を聴いているとカッコーの声の邪魔だと言う。
音楽を止めると初夏の風に揺れるレースのカーテンの向こうからカッコーの声が聴こえた。
テーブルの上の便箋には青いインクの文字が並んでいるのが見える。
母はよく誰かに手紙を書いていた。

時には私の塗り絵を知らないうちに完成させていることがあった。
ごく弱い筆圧で淡く塗る独特な仕上がりで不思議な透明感があった。
ガラス細工みたいなドレスを着たディズニーのお姫様たちは夢のように綺麗で、その塗り方に憧れたものだった。

物静かだがよく笑う朗らかな母で、父と争う姿も見た事がなかった。
ただ一度だけ。
仕事に出掛ける父を見送った後、閉じたドアに向かって握っていた布巾を思いきり投げつけていたのを見た。
その後ろ姿は別人のようで少し恐ろしかったのをよく覚えている。

そして時々台所の窓から外をぼんやりと見つめる母の姿が忘れられない。
窓からは祖母の野菜畑と雑木林、その向こうは山の斜面と続く。
紫煙をくゆらせながら、その背中は何を思っていたのだろう。

ちょうどその時期と重なるある日。
習い事を終えた私を父が車で迎えに来て、その後どこかで一人の女性を乗せた。
母よりずっと長い髪とおしゃれな服。
助手席から振り返って私に向けられる笑顔は、仮面のように美しく化粧が施されていた。
化粧っ気のない母とは全然違う人種のように感じる。
きつい香水の匂いが車内に充満して頭痛がした。

その女性をどこかのマンションの前で降ろしたあとに父は「あの人を乗せたことお母さんには内緒な」と言う。
子供ながら見てはいけないものを見たような嫌な気持ちでいっぱいだった。

家に帰ると母が台所から出てきた。
私は母に抱きついてエプロンに顔を埋めた。
油の匂いに混じっていつもの柔軟剤の匂いがする。
なぜだか涙が溢れて母のエプロンで涙を拭きながらしくしくと泣いた。

翌日、母は私の涙は学校に原因があると思ったようで担任に電話をした。
私はその頃特定の友達がいなくていつもひとりでいたのだが、思いがけずその事が母にバレてずいぶん心配させてしまった。

大人になった今、私はテレビの音が苦手でつけっぱなしにする事はないし家事をする時の作業音が好きだったりする。
それにふと気がつく時、母のことを思い出すのだ。

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