夢実現のための臨場感をえるコツは、五感を越える感覚を得ることと、その先の「日常」に浸っていくこと

 望むゴールを臨場感をもって描くコツは、ゴール達成の瞬間ではなく、ゴール達成の世界に生きている日常までもありありと描くことがコツだと思う。
 それも視覚だけではなく五感全てを使って、かつキーワードは「共感覚」。
 言葉を変えれば、五感と五感を超えた(もしくは五感を統合した)感覚がキーワードな気がしている。

 視覚だけでは足りない。その世界のなかに生きているときに感じる、肌に触れる服の感覚、足裏の感覚、耳に感じるもの、目に入るもの、それらによって湧き上がる内面的な情動、五感では表現できない内部的な感覚。そういうものを事細かに体感していくと良さそう。

 本来望む世界は、繰り返し繰り返し暇さえあれば夢見るものであるはずだ。
 どこかで夢を描くことをおしむような気持ち、すり減って陳腐化してしまうのではという気持ちもあったが、間違いだと思う。
 一番美味しいものは一番最後にとっておく、というような心境は誤り。

 誰かに押さえられても押さえられても、なお望み、夢想してしまうのが本来の夢であれば、その気持ちを出し惜しみせずに暇さえあれば擦り切れるほど、その夢の世界で戯れているのが正しいのだろう。

 もっと自由に夢は描き続けていい。それもまるでそうでないのが不思議になるくらいにありありと。

 多くの人は目を瞑った時に何もみえない、何も感じない真っ暗な世界で生きているとしたら、夢を求める人は常にそこにワクワクとする喜びに浸れる世界がある。それは、それだけでもとても幸せなことではないだろうか。

 そういった世界を抱き続けて日々を送れるということは、とても素晴らしいことではないだろうか。あるいは、この「現実世界」に実現されなかったとしても幸せな人生ではないだろうか。

 大人になるにつれて、日々にワクワクがないというのならば、この夢を描く力、夢想する力が衰えているからではないかと思う。

 常に夢の世界で生きている。
 もしくは生きている夢の世界を携えて浸りながら生きる。その際に、必要なのはただのワンシーンを描くのではなく、そこで感じるひとつひとつの些細な五感を場合によっては言葉にしながら、先に進めていくことではないか、と思う。
 つまりは、実現した瞬間ではなく、実現したあとの淡々とした「日常」まで含めて、そのなかで生きていくこと。
 目に触れる食器や、どうでもいい壁の色や、水に触れた些細な感覚まで含めて。

 自分はそういう感覚を大切に生きていこうと思う。

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