圧倒的な「快楽的努力」によって夢は実現する

 引き続き「努力」についてです。

 先日Youtubeをザッピングしていていいなと思った動画。

 カロリーメイトのweb movieです。コロナ禍で努力する高校生を描いた清々しい映像。

 本来私たちは何かに打ち込みたい願望があり、その願望が刺激されるような気持ちになります。

 何かことをなすためには圧倒的な「努力」が必要ということは、アタリマエのようでいてそれがなぜかしらできないのはなぜでしょうか。

 「努力」という言葉から想起されるイメージのうちに、辛い・きついという負のイメージが混じっていることが一因であるように思います。

 「努力」で包含されるものをもう少し分解してみると、「マイナスの状況から逃れるための努力」と「プラスの状況を得るための努力」があると思います。これらを一緒くたにするので、どこかマイナスのニュアンスが混じってしまっているのではないでしょうか。

 もっと「努力」によって表されるものをプラスに満ちたものだけに抽出して表現してみるといいのでは、と思います。

「マイナスの状況から逃れるための努力」

 これはとてもきついものです。
 例えば、こんなものです。
 営業成績があがらず上司に叱責されることを逃れるために必死になって残業して顧客へと頭を下げ続ける。
 毎週のようにやってくる報告の場が憂鬱でしかたがなく、屠場に連れていかれる羊のような気持ちを抱えながらも、挽回の策を練り続ける。
 ボロ雑巾のような状態で、もう乾ききっているにもかかわらずに、何とか数滴の水分を搾り取るような「努力」

「プラスの状況を得るための努力」

 反面、本来これは楽しいもののはずです。
 それをすることによって、プラスの状況に近づける。「快楽」に近づけるための活動であるわけです。

 私たちは、夢実現に近づく活動をもっと夢中になってやりたいと望んでいるはずです。後者をもっと熱心にやりたいはずです。
 そのためには圧倒的な「努力」が必要になるわけですが、この「努力」という名称をもっとポジティブなものにかえるのも一つの手ではないかと思います。

 最も理想的な言葉は「夢中」だと思います。
 自身を振り返ってみて、何かことをなしたときには「努力」という言葉すら思い浮かばないほどに、それに「夢中」になっていた経験をいくつか持っています。
 夜を徹して活動するが、そこには外発的なものは何も無く、ただ自らがそれをしたいからという理由だけで気がつけば時を忘れて「夢中」になっている状態。

 夢中という言葉をよくみると、「夢の中」と書きますね。
 夢と現実とが混在化されて、まさに夢の中で自らのあるべき活動を自然に行なっているだけの状態です。これが一番強いのは確かなことです。
 ですから、私たちは何か夢を実現するためには「夢中」になることが最も近道です。

 けれども、その夢が若干遠いようなものであったとき、もしくはいつもいつも「夢中」になれないとき、もう少し下げた活動の言葉があるといいと感じます。

 他にいい言葉があると思いますが、私は「快楽的努力」といういくらか無骨な言葉を使うようにしてみようと思います。

 夢中>快楽的努力>努力 と努力をさらに三つにわけてみて、夢中になれないときは、快楽的努力というカテゴリーを使って、多少なりとも自らを鼓舞してみるのは、ささやかながら有益ではないかと感じています。

 普通でないことをなすためには、人並みならず圧倒的な活動量(知識・経験)を積む必要があります。どのようにそれを成していくのか。
 「夢中」と「快楽的努力」によってしか、それはなしえないものと自覚して、寝る間も惜しんでことをなしていきたいと考えます。
 それを、安眠を貪るよりも、また無意な時間をすごすよりもずっと素敵な時間だと自覚していきたいと考えています。



 

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