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「愛しあうこと」を手放してみた夜

魅力的で可愛い彼と
夜のバーでデートをしていたその時
私はふと、もうその彼のことがどうでもよくなった。


別の表現にするならば
もう "どうしたい、どうなりたい"という気持ちが無くなった
という感じかなぁ。



男の子達と出逢ったり恋をしたり、愛し合ったりする度にわたしは
「もっと分かり合える関係」とか
「もっと彼に求められて愛されたい」とか
「もっと彼との関係を深め合いたい」とかを願ってきたのだと思う。

それは無意識のうちに、ではあったけれど
女は男を求め
男は女を求める
ように、お互いが惹かれ合い、求め合い、自然と「2人の愛を究極に高めたい」
というような理想を求めてきたのだと。

2人で幸せになるってそういうことでしょう?
って信じてきた。


それを叶えられそうな人は誰なのかな
それに近い存在は誰なんだろう?
といった具合に、理想的な私の描く愛の形に近い男性を探し求めていたのだろうなぁと思う。



それがここ最近、そんな理想が
ふっとゆるんでいた

そんな願いや願望へのアウトラインが
ぼやけていたタイミング

その夜に
隣にいる彼と笑い合いながら過ごす瞬間に
この想いが突然降ってきたのだ


あぁ、もうそういうの
本当にどうでもいいや

と。


私はこの人が私のことをどう思っていてもいなくてもいいや。
この人が会える時と、私が会える時が奇跡的に重なった時に会えばいい
そして私は自分の人生がなによりも一番大切だし、私がこの人といない時も幸せに生きることがなにより大切だし、この人といる事で得られる喜びはコース料理で例えるならばデザートのような喜びであって
メイン料理の感動は自分にしか作れないんだなぁ


なんて思ったりした。

私という人生のコース料理は彼がメインテーマではないし
彼というコース料理も私がいなくては完成しない…なんていうのもどこかおかしい。

彼と私の人生をニコイチで考えるのではなく
はたまた、別の彼との幸せを私の人生の喜びに加算して考えるでもなく

私の出来る範囲のことで
私が自分を幸せにして
自分由来の幸せや喜びをあてにする

誰かや、何か、をあてにしない
幸せにしてもらおうとしない
愛情をもらおうと、期待してはいけない
どこかに期待や相手への依存があるのなら
そんなのはきっと愛じゃなかったんだなぁと

カウンターで光るウイスキーのロックグラスを眺めながら

いままで自分が愛だと信じていたものを振り返っていた。



男の人が好き
あの人が好き
あの人も好き


でもそれらの気持ちは

彼らに愛されて
あったかくてくすぐったいような心地いい幸せに
すっかり依存してしまっていた私の弱さと期待もちょっぴり溶け込んでいるに違いない。




彼らは私に会うと
いつだって少年みたいな顔してありったけの愛を表現してくれる。

私だって彼らのように
ありったけの愛を自分の人生に表現していけば
いいじゃないの


愛らしく可愛い彼らの顔を思い浮かべながら
心の中でギュッと抱きしめて
そっと背中を押して自由に放つ。

そして私はいつだってひとりで自由に生きていく
振り向けばみんながいるから大丈夫、不安にならなくていいんだ、と気付けたような気分。



愛に出逢ったら、つかまえて、育てるものだと信じていた私が

その夜に

愛を心の中で抱きしめる
「だけ」に変わった。


愛を手放してみたら、心は前よりもっと優しくて
愛に満たされているような気分になった気がした


そんな私はきっとまだ愛のヨチヨチ歩きだけれども。


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