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第四十九話 桑の実の味

もくじ

「こんなの生ってたけど、食う?」

 ちょうど煙草を吸い終えたとき、久寿彦が水場から戻ってきた。ジャージを脱いで、上半身はオレンジ色のTシャツ一枚。真一の隣に座って、山盛りの桑の実が乗った手のひらを差し出した。泉の由緒を記した看板のそばには、確かに桑の木が生えている。さっき前を通りかかったとき、赤い実と黒っぽい実が半々くらい生っていた。

「またけったいなものを……」

 怪訝な顔で手に取るのをためらっていると、洗ったから大丈夫だよ、と久寿彦はさらに手のひらを突き出してきた。

 桑の実を食べるのはべつに初めてではない。子供の頃、野川に遊びに行く道すがら、道端に生っていたものを、よく友達とつまんで食べていた。どんな味だったか、はっきりとは思い出せないが、どろっとした食感は覚えている。

「じゃあ、ちょっとだけ」

 三、四粒つまんで、自分の手のひらに移す。ぶどうのミニチュアみたいな実を口に放り込むと、ちゃんと甘酸っぱいフルーツの味がした。確かに、昔、梅雨空の下で食べた味だ。

「今日は残念だったな。バイトのみんなと遊びに行けなくて」

 咀嚼した実を飲み込んで、真一は言う。

「みんな出かけたよ。天気予報でも、雨は午前中で上がるって言ってたし」

 アパートを出たときの推測は外れた。雨で予定は流れなかったらしい。ただ、それ以上に意外だったのは、久寿彦が仲間たちと一緒に遊びに行かなかったこと。久寿彦はインドア派っぽい見た目に反して、外に出たがるタイプだ。一人でいることにも耐えられず、いつも誰かとつるんでいる。

「何でお前は行かなかったの」

 その問いにすぐに答えようとせず、久寿彦は前を向いたまま、桑の実を口に放り込んだ。もぐもぐと顎を動かしながら思うところがある様子だったが、引っこ抜いた果梗を指先で弾くと、何かをあきらめたように口を開いた。

「最近、あまりそういう気分にならないんだよ。先週も適当に理由をつけて断っちゃったし」

 地面に落ちた果梗につま先で砂をかける。真一は、かすかに予感めいたものを感じた。

「……最近って、いつから?」

 胸騒ぎを覚えつつ、探るように訊く。

「連休の少し前あたりからかな。何だか、急にパワーをなくしちゃったみたいに感じてさ」

 連休前といえば、真一が常愛川の河川敷に頻繁に通い始めた時期と重なる。そこには何か意味があるのだろうか……。

 考えようとしたら、久寿彦が不意に顔を上げた。

「お前は、まだイケイケか?」

 弱々しい笑みを見た瞬間、予感が的中したと悟った。

 久寿彦が言わんとしていることがわかる。喉元までせり上がっている言葉は、真一の胸にあるものときっと同じ。久寿彦はそれを言うために、今日電話してきたのだろう。

 落胆が胸に広がっていく。

 アパートを出たとき、少し期待していたのだ。久寿彦がいつもの調子で、他愛ない世間話でもしてくれたら、自分が感じた違和感を、憶測とは違う何かのせいにすることができるかもしれない。固まりかけていた確信を、再び白紙に戻すことができるかもしれない、と。

 真一が導き出した答えは、まだ真一の胸の中にだけあって、誰かに知られたわけではない。他人の目に触れていない以上、たとえそれがどんなに真実めいたものであっても、単なる思い込みという可能性が残るのだ。

 だが、淡い期待は、のっけから裏切られた。

 久寿彦がこんな問いを発したこと自体、すでに答えを聞かされたようなものだ。

 動揺が落ち着くのを待って、真一は口を開く。

「わかるよ……。年取ったよな、俺たち」

 自然と白旗を上げるような口調になってしまった。口に含んだ桑の実は、さっきより酸っぱい味がする。

「……お前もそう思う?」

 久寿彦の声は、どこか安堵しているように聞こえた。真一とは逆に、同じ境遇の仲間が見つかって良かったと思っているような。

「ああ」

 仕方なくうなずく。できれば認めたくなかった。

 久寿彦の視線をかわして、向かいのセンダンの木に目をやる。蒸し暑い大気に涼を添える花に、大型の蝶が群がっていた。黒い翅に、鮮やかな水色のブーメラン――アオスジアゲハだ。花から花へ盛んに飛び移って蜜を吸っている。

「いきなりガクッときた。この一ヶ月で一気に十歳くらい老けた気がするよ」

 一ヶ月と聞いて、ふと思い出す。花見の日、別れ際に聞いたあの言葉。

 もう青春時代も終わりかなあ――見上げた空に言わされたかのように、久寿彦は吐き出していた。

 あれは一ヶ月以上前のことだから、今の言葉とは辻褄が合わない。それとも、あのときの言葉と今の言葉は、意味する内容が違うのだろうか。

 だが、少し考えて合点がいった。

 真一が初めて違和感に気づいたのは、あの日、弁天橋の欄干に腰掛けていたときのこと。それから岩見沢の家の前で立ち話をした日まで、空白の期間が続いた。ただ、「空白」 に思えたのは真一が鈍感だったからで、注意深く振り返れば、気になる瞬間が何度かあった。それと同じことが久寿彦にも当てはまるのだろう。一見何も変わっていないように思える日々を送りつつも、そこに潜む違和感に気づかなかったのだ。

「あいつらと話しててわかるんだけどさ、もうノリが違うんだよな。俺からすれば、あいつらはリミッターなしでハジケてる感じがするんだよ。ちょっとしたことで火がついて、一度盛り上がったらどこまでも突っ走ってやるぞって感じで……」

 一旦言葉を切り、

「あいつらってのは、宇和島たちな。花見の日にお前も話しただろ」

 記憶を探るまでもなく、すぐに思い当たった。真一たちのグループの隣にいたグループ。宇和島や野田は、久寿彦の高校時代の後輩だ。久寿彦は校外のメンバーと結成した 「太陰流珠」 以外にも、高校の軽音部の人間とも仲が良かったらしいが、宇和島たちとはその繋がりだと岩見沢が言っていた。

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