見出し画像

第二十話 世界が失われる時

もくじ

 日中の陽射しをたっぷり吸い込んだ欄干は、まだこの時間でも温かい。湯たんぽの上に座っているみたいで、ついうとうとしそうになる。

 懐かしい匂いが鼻をくすぐっている。花と青草の瑞々しい匂い。豊潤な大地の匂い。一年ぶりに嗅いだ春の匂いだ。ほかの季節の匂いより心に訴える力がある気がするのは、春が出会いと別れの季節だからだろうか。

 風が強まり、千年桜が騒立った。

 豊かに花をつけた枝が、折り重なり合いながら風にうねっている。花びらの多さ、差し交わす枝の複雑さは、ほかの桜を遥かに凌ぐ。圧倒的な光景だ。我を忘れて、目が釘付けになってしまう。千年桜は、「木」 というより 「森」 と言っていい。薄紅色の花の森。

 樹上でパッと風花が散った。桜色の胡蝶の群れが千々に乱れて、青空を流れていく。ほどなく勢いを失って、季節外れの雪のように、松浦たちの頭上に降り注いでいった。

 松浦が再び体力任せの攻撃に打って出た。立て続けに水を掻き上げつつ、じりじりと野田を遊歩道へと追い詰めていく。勝負に決まったルールがあるわけではないが、相手を橋の外へ追い出すことができれば、松浦は勝ちを主張できるだろう。

 だが、もう一歩というところで、鉢植え皿を取り落してしまった。おろっ、と間抜けな声と同時に野田が走り出し、一気に橋の真ん中まで戻ってくる。

「そこで待ってろ」

 松浦はフリスビーのように鉢植え皿を放り投げた。水面にブイのように浮かんだ鉢植え皿を目指して、クロールで戻り始める。濡れた上腕が夕陽に赤く輝く。

 野田の真下に到着して勝負再開。

 鉢植え皿をつかんで、絶え間なく水を掻き上げていく。やはり、体力こそが松浦の武器だ。

 利き腕の右腕を使っている以上、野田の逃げる方向は、また遊歩道側になる。

 石垣の上で声を張り上げる仲間たち。松浦に濡れ鼠にされた彼らは、全員野田の応援団だ。野田が松浦をへとへとに疲れさせ、まいった、と言わせることを期待している。

 ドタバタと色々なことがあった春の祭典も、そろそろ終わり。水平に近づいた陽射しが、仲間たちの表情をくっきり映し出している。拳を振り上げている奴、汚い野次を飛ばしている奴、白い歯を見せている奴、ペットボトルで欄干を叩いている奴、濡れた服を頭上で振り回している奴……。
 黄金色の水しぶきが、彼らを額縁のように切り取っていた。

◇◇◇

「違う…………」

 ある瞬間、思った。

 欄干の温かさにまどろみながら。
 ぼんやりと他人事のように。

 あらゆるものが異質な光を放っていた。目の前の一切のものが自分とは異なる何か――雰囲気、感情、色とも言える何か――に染まっていた。夕映えの桜並木も、声を張り上げる仲間たちも、跳ね上がる水しぶきも、湿っぽい石垣も、花くずが溜まった水面も、赤い欄干も、くすんだ擬宝珠も、濡れた橋面も……。

 数瞬が過ぎ去り、その光景と対峙しているのが、ほかならぬ自分だと気づいてハッとする。

 橋の向こうで囃し声を上げる仲間たち――

 腰を上げて歩き出せば、すぐにでも彼らの所へ行ける。何ら難しいことではない。対岸までの距離は、二十メートルあるかないか。手を伸ばせば、届きそうな距離だ。

 だが、動けなかった。彫像みたいに体が欄干に固定されてしまっていた。

 松浦と野田の対戦に水を差すと思ったからだろうか……?

 確かに、それもある。だが、重要な理由ではない。それとは別に、もっと深いところで、体が動くことを拒絶していた。

 自信がなかったのだ。

 対岸の世界に、すんなり自分が馴染んでいけると思えなかった。そこにあるものを、自分の五感は正しく把握できるだろうか。例えば、誰かの体に触れたとして、いつもと同じ手応えを感じ取れるだろうか……。

 我ながら、突飛で馬鹿げた考えだと思う。こんなこと普段ならまず意識しない。

 自分が世界の一員であること――それは、疑う余地のない自明な事実だからだ。身の周りに空気があふれていたり、重力によって枝からリンゴが落ちるのと同じくらいに。空気にしろ、重力にしろ、存在することが当たり前すぎて意識することさえない。

 言い知れない不安がこみ上げてきた。

 ずれた……?
 ――何が?
 いつ? どうやって?
 ――それもわからない。

 何かが一瞬にして、自分を弾き飛ばしてしまったみたいだった。弾かれたと自覚する間もなく……。

 気づいたときには、異なる次元から仲間たちを見つめていた。

 それは、生まれて初めて目にした光景だった。
 世界は、かつてないよそよそしい表情で目の前に立ち現れていた。

 実際に何が変わったというわけではない。客観的な見た目は何も変わらない。
 ただ、あらゆるものが自分の知らない色に染まっていた。

 異質で、異様で、噛み合わない。
 ひとつの接点もない。
 自分とは。

◇◇◇

 どれくらい時間が経っただろう。

 頬をなぶる柔らかい風に気づいた。ぼんやり見下ろす膝頭に、花びらがひとひら貼り付いている。ざらついたデニム生地に引っかかって小刻みに震えていたが、やがて力尽きて風に飛ばされていった。

 手のひらに嫌な汗が滲んでいた。ズボンで拭って、橋の向こうに目を向ける。

 赤い平行線が尽きたところに、仲間たちの姿はない。桜並木の入り口がぽっかりと口を開け、橋面についた濡れた足跡と踏みにじられた花びらが、喧騒の名残を留めるのみ。

 世界が自分だけを置き去りにして、忽然と消えてしまったかのようだった。

 島はもちろん、遊歩道からも人の気配は伝わってこない。

 石垣の手前で、くるくると尾を引く花びら。広く見渡せば、桜並木のいたる所から花の片々が舞い落ちている。水面に向かってそれらは絶え間なく降り注ぎ、大小の花の浮島に加わっていく。一帯を満たすものは、散りこぼれる花片の音さえ聞こえてきそうな厳かな静寂。

 勝負の行方はどうなったのだろう。松浦が野田を橋の外へ追いやったのか。野田が松浦を降参させたのか。いずれにしろ、松浦はこっちに泳いで来なかった。

 ようやく重い腰を上げたが、すぐに動く気にはなれない。

 様々な考えが一挙に噴出して、頭の中が混乱していた。異常な状況から抜け出して我に返ったはずなのに、まだどこか現実感がない。夕陽を浴びて燃えるような桜並木と向き合って、呆然と橋の袂に立ち尽くす。

 あの瞬間、目に映った一切のものが、うっすらと磁気のようなものを帯びている気がした。近づこうとしてもそれらはさっと向きを変え、自分の体は、かすりもせず脇を通り過ぎてしまう。ある程度接近できても、一定の間合いに入ることはできない。強引に踏み込もうとすれば、見えない反発力によって弾かれてしまう……。

 むろん、荒唐無稽な思い込みにすぎない。現実には、あり得ないことだ。

 ただ、理性で否定できても、感情的にどうしても納得できなかった。

 橋の向こうの世界と自分は、決して交わることがない。

 二本の赤い欄干のように、どこまで行っても平行線を保ったまま。

 本能的とでも言うべきそんな直感が、あのときの自分を強く支配していた。

 いくらか心が落ち着いて、ようやく一歩踏み出した。花びらが散乱する橋の上をのろのろと進み、遊歩道に出たところで第二広場のほうに曲がった。宵に用事があることは仲間たちに伝えてある。このまま断りなくアパートに帰っても誰も文句は言わないだろうが、ブルーシートに上着を置いてきてしまった。

 歩みの速度に合わせて、灰褐色の桜の幹と雪洞の赤い鉄柱が、視界の端を交互に流れ去っていく。夕陽の斜光が差し込む桜のトンネルに、まだ雪洞の明かりは灯っていない。そろそろ日没を迎える時間だが、火屋に火が入れられるのは、池の周りが薄暗くなってからだろう。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?