見出し画像

第七十二話 わだつみの姫御子/秘密基地を作ってみよう

もくじ

 岬の広場から、道はヘアピン状に折り返す。ハマカンゾウが道標をなす陽当たりのいい緩い下り坂を、背負子を背負って一列に歩いていく。濃緑の山斜面いっぱいに轟く無数のセミの声。真一たちと一緒に、短い夏を目いっぱい謳歌している。もっとも人間は、セミの成虫と違ってひと夏限りの命ではないけれど。

 陽当たりのいい区間は長く続かず、また森の中に入った。ただ、湾の縁に沿った道なので、森の枝葉を通して青い海が見える。山の麓はゴツゴツした岩場。湾を広く眺め渡すと、入道雲を背負った西側の山並みの手前に、緑の小島や岩礁がのんびりと浮かぶ。荒磯が目立つ岬付近と対照的に、湾内の景色は実に優美だ。長々と山道を歩いた先に、こんな美しい入り江が開けているとは、口で説明されても、想像するのはなかなか難しかった。

 真名井さんは、夜この入り江に来ると、砂浜にイスを出してぼんやり海を眺めるという。コーヒーを淹れて、誰もいない海と向き合えば、至福のひととき。月影清かな晩は特に素晴らしい。東西の山並みや島々から色が消え、影絵の世界になる。夏場はハマユウの濃厚な匂いが漂い、何とも言えない神秘的な雰囲気に包まれるという。静かな波音に耳を傾けると、金波のさざめく海上の道を、わだつみの姫御子が渡って来そうだと言っていた。

 ゑしまが磯は、一般の人にはほとんど知られていない。ガイドブックはもちろん、地図を広げても地名の記載はなく、山の等高線が並んでいるだけ。磯遊びやシュノーケリングができるポイントまでは、相当歩かなければならず、地元としても積極的に売り出す気はないようだ。休日に地元の人やどこかで情報を仕入れた観光客が興味本位で訪れることはあるが、平日は大抵ガラガラ、貸切状態になることが多い。現に、樹木越しに見晴るかせる白い砂浜には、人っ子一人いない。

 坂の終点に、マルバチシャノキというわりと珍しい木が生えていた。黄色い実が固まって生るせいで、人目につきやすい。この木の手前で左に折れ、そこから先は山を背にして、黄緑色が眩しい草むらに伸びた細いトレイルを進んでいく。ここまで来たら、もう迷う心配はない。誰もが思い思いのペースで歩いて大丈夫だ。広場を発ってから真一の前を歩いていた坂戸と竹原が、ちょっとトイレ寄っていきます、と言って列から離れた。二人が曲がっていった小道の先には、夏場だけトイレが設置されている。

 随所で鳴くキリギリス。行く手でハマユウの白い花が風に揺れている。左手の海に並んで浮かぶ岩礁と緑の小島は、ちょうど亀の頭と背中のようだ。仲間たちが飲み物を飲んでくれたおかげで、背中の荷物がだいぶ軽くなった。真名井さんたちのいるテントまであと少し。真一は背負子をひと揺すりして、歩みのペースを上げる。

◇◇◇

 見覚えのあるテントが近づき、砂浜へ向かう道に折れた。左右に群生するハマユウは、南国情緒たっぷり。ヒガンバナみたいでも、雰囲気はまったく違う。花にも葉っぱにもボリュームがあって、夏の生命力を感じる。黒潮に乗って南から運ばれてきた花だ。

 甘い芳香を放つ花群を抜けて、久寿彦を先頭に、四谷、美汐……と草地の端から短い斜面を下りていく。

「あ、猿人バーゴン発見」

 岡崎が砂浜の一点を指さした。人差し指が示す所には、海パン一枚で大の字になっている男が一人。よく日焼けして、筋骨たくましい健康優良児。

「捕獲せよ」

 岡崎は砂浜に背負子を下ろして走り出す。

「やい、バーゴン! 観念しろ。川口浩探検隊の到着だ」

 松浦の頭の上で叫ぶと、適当な方角を指さし、

「無駄な抵抗はやめろ。さっさとヘリに乗れ!」

 そう言えば、「水曜スペシャル」 でも、こんなシーンがあった。バーゴンは川口浩探検隊に捕まって、無理矢理ヘリに押し込められてしまうのだ。ジャングルの奥地で一人平和に暮らしていたのに、なぜあんな目に遭わなくてはならなかったのか。あの回を見たときは、さすがにバーゴンに同情してしまった。今なら立派な人権問題だろう。

 それはともかく、松浦はぴくりとも動かない。いつもなら怒って岡崎を追いかけ回すところなのだが。

 背負子を下ろしつつ、真一は悟った。ボウズだったのだ、きっと。命がけで遠征して、何も釣れなかった。夜通し粘っても、ウキはぴくりとも反応しなかった。これも釣りの醍醐味と言えたなら、たぶんその人は釣聖と呼ぶにふさわしい。その域に達していない凡人は、意気込んだ分だけ落胆も大きい。松浦があの様子なら、波田と真名井さんもテントの中で不貞寝しているに違いない。
 傷心の三人はそっとしておくことにして、彼らが夜のうちに運んでくれた荷物をテントの裏から引っ張り出す。トイレに寄っていた坂戸と竹原が到着すると、今日一日を過ごすベースキャンプを設営する作業に取り掛かった。

「ペグ打つハンマーどこだっけ」「もう少し場所を空けないとタープが重なるぞ」「バーベキューコンロどこ置く?」「早く日陰作って」「現場監督は四谷だな」「頼むぜ監督」。

 浜辺に響き渡る賑やかな声。人と物が雑然と散らばって、高校の文化祭でハリボテを作ったときを思い出す。

 しばらくして、益田と西脇が二つ目のタープの設営に取り掛かった。人数が多い今日は、タープ一張りでは足りない。調理場用のタープも必要だ。

「さあ、どんどん張っていくぞ」

 ガイロープの角度を調整しながら、久寿彦がみんなに発破をかける。色白の久寿彦にとって、手早くタープを張るのは、自分自身のためでもある。日焼け止めを塗っていても、やはり日陰に入ることが最大の日焼け対策だろう。

 葵とコンビを組んだ真一も、もうすぐ一張り目を完成させることができそうだ。七月に海に行ったときは、仲間たちにあまり貢献できなかったが、あれから自分なりに勉強して、今は久寿彦や岡崎たちと同じペースで仕事ができるようになった。

 坂戸と竹原は四谷の指導でテントを張り、夏希と真帆は折りたたみテーブルやイスを広げたり、散らかった現場の片付けをしたりと忙しなく動き、美汐と美緒は完成したタープの下で調理場の配置を考えている。松浦と真名井さんも途中から作業に加わった。波田はテントの中にいなかった。松浦が言うには、朝食をとって一休みしたあと、再び釣りに出かけたらしい。

 ベースキャンプが完成すると、真一は近くにいた何人かと海のほうに歩いていった。

 波打ち際の手前まで行って振り返る。そこにあった光景は圧巻だった。目を見開いたまま、思わず固まってしまった。

 砂浜に出来上がっていたのは、単に遊びの拠点と言うだけは足りない。それは、立派な 「村」 だった。もしくは集落。真夏の蜃気楼を見ているのかと思った。目の前の光景に現実味を感じられず、無意識に目をこすって視界を確かめた。

「すごいね。無人島を借り切っちゃったみたい」

 真帆と夏希は、手を取り合って飛び跳ねながら喜んでいる。

 ベースキャンプの背後に見えるのは、ハマユウの揺れる草原と濃い緑の山斜面だけ。山の後ろには真っ青な夏空が広がる。どこを見渡しても、人工的な物は見当たらない。砂浜にいるのも真一たちだけだ。

 ひたすら自然の息吹だけが感じられる海岸だ。こんな所で一日を過ごせるのかと思うと、わくわくする。きっといい思い出が出来るだろう、と今から確信した。

「おーい、乾杯するぞー」

 ベースキャンプから久寿彦が手招いている。期待以上の成果を目の当たりにして、確かに乾杯したい気分だった。さすがにアルコールは持ってきていないから、お茶かジュースで乾杯するのだろう。それで十分だ。真帆と夏希が砂浜を駆けて戻り、真一も岡崎と一緒に砂についた足跡を辿っていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?