「ひゃっほう!」と思える出来事とは

「今日なんかいいことあった?」

私が高校生の頃に帰宅後「お帰り」とともにかけてくれていた母親の言葉である。「ふつう」と私は多くの場合答えていた。そのため,「今日は,●●ってことがあって!ほんとにうれしかった!」などと私が嬉々として話した際には母親はどれだけ安心したことだろう。

大学生になり,ふとこの会話を思い出し,最近私の中でいいことあったかなと振り返ってみた。残念ながら,私はモラトリアム真っ最中。悩み多き青年期を送る学生である。そのため,心が晴れやかになることはあまりない。というか全くない。強いて言うなら最近出会った本が少し今の私の思い気持ちを軽くしてくれたことだろうか。なかなか諸手を挙げて喜ぶような出来事は起こらないものである。

私の母親のもう一つの口癖は「ひゃっほう!」である。このように文字化してしまうといかにも私の母親が愉快な人のように思われるかもしれないが,私の母親は比較的お堅い人である。「ひゃっほう!」という言葉にはうれしさが存分に込められている。ではこの「ひゃっほう!」と思えるような出来事について考えてみたい。そして以降「ひゃっほう!」と思える出来事=最高の出来事とする(理由は今後私が「ひ」と打ち込んだ際に入力履歴に「ひゃっほう!」が出てくるのが少々間抜けだからである。パソコンに覚えさせる前に手を打っておきたい。)


1.最高の出来事とは

まず最高の出来事について,最高の出来事とは何だろう。
最高とは,広辞苑第六版によれば「最も高いこと」とされている。つまり最高の出来事とは「最も高い出来事」ということになる。なにが最も高いのか。私の見解では「気分」であると考える。気分が高まっているとき人は「今最高の時間だ!」と思うのだと考える。ということは,最高の出来事がないということは,「気分の高まりがあまり感じられていない」ということになると考える。

2.なぜ気分の高まりを感じられないのか

ではなぜこの気分の高まりを感じられないのか。私はおそらく気分が落ち込んでいるわけでも,ずっと一定の気分で動いているわけでもない。そこで私はこの気分の高まりを感じられない理由を「ずっと欲望のままに生きているから」なのではないかと推測する。例えば私が毎日ダイエットのためにランニングをしているとする。食事制限もしているとする。その様な中ででかいパフェを食べるというのはかなり至福の時だろう。その一方で,欲望のままに毎日のようにアイスやお菓子など食べていればそのパフェの格別さを感じることができないだろう。

3.高校時代の私

私は高校時代,大学時代よりも最高だな!と感じる瞬間が多くあった。それは高校時代勉強や部活という名の修行(誤解がないように書いておくが,勉強も部活も楽しく,ブラックだったというわけではない。とても楽しかった。だが体力的に部活はつらかったということである)をこなした上で,めったにない幸せな時間を過ごすことができていたからであると思う。友達と遊んだり,ご飯を食べに行ったり,買い物に行ったり・・・そういう今では何気ないことがとにかく最高だった。

4.最高の出来事を作るには

では,以上のことを踏まえると最高の出来事を作るには「メリハリ」が大事になるのではないかと考える。普段は慎ましやかに勉強したり,自己研鑽をし過ごしたり,休むときは「よし,最高の時間を作るぞ!」と意気込むくらいのメリハリである。そのメリハリの強弱によってどれだけ最高の出来事になるのではないかと考える。

終わりに

最高の出来事よりも日常が大切だ,という人は多くいる。私はこの意見に大いに賛成できる。日常ほどかけがえのないものはない。日常は偶然なものがほとんどだからである。ただし,その日常を大切だと思えるのは特別な出来事があるからこそである。その特別な出来事どうしたら生み出すことができるのか。何か特別なことをする必要はない。海外に行かなければならないという訳でもない。日常を日常らしく,そして慎ましやかに生きること,それが特別な出来事を最高な出来事にすることができる。私も「何かいいことないかな」ではなく,日常生活で慎ましく,苦行とまでは行かずとも欲望のままに生きないよう自己研鑽していきたい。



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