あの頃を思い出す、壮年の盆休み

中学生の頃、来る日も来る日も部活動があり、春夏秋冬、雨風熱波関係なく練習をしていた。

人間は偉いもので、そんな生活も半年もやると慣れてくる。
今にして思えば、毎週の遠征で弁当を作ってくれたり、様々な消耗品を嫌な顔ひとつせず買ってくれた両親は偉人と遜色ない。

定期の休みは、お盆と正月の各5日程度で、今ならやり過ぎだと思うが、なぜか当時は不思議と気にならなかった。
結構素直な少年だったのだろう。

今にして思えば、両親が日程表を見るたびに怪訝な顔をしていた気がするが、運動に打ち込む我が子が誇らしかったのか、学業が点で上手く行かないので、スポーツに一縷の望みをかけたのかもしれない。
どういう理由であれ、両親は応援してくれた。
僕の認識としても、あれ程何かに打ち込んだ経験は後にも先にもない。
けれど、別に表彰されるような成績はついに一度も取る事がなかった。

ああいう経験が無駄だと思わないし、思いたくないが、もっと有効な使い方があったのではないかと言われたら、返す言葉を探すのは難航するだろう。

けれど、あの時期の記憶で一番記憶に残っているのは、帰り道だ。

僕は毎日Y君と一緒に帰っていた、ペアを組んでいる訳ではなかったし、特段趣味が合う訳でも気が合う訳でもなかったと記憶しているが、家の方向が同じだったので毎日帰っていた。

毎日、取り留めの無い話をしていた。
主に顧問の愚痴や恋愛の話だったと記憶している、僕らには共通の趣味がなかったので、話の奥行きがなく、毎度同じ話の繰り返しを練習で疲れ果てたなか、うわごとのように話し、てきとうに相槌を打っていた。

そもそも、冴えない男子中学生の恋愛事情などたかが知れているし、悪口のバリエーションもユーモアも何もかも足りていなかったのだ。
なにより、それほど顧問の事は嫌いではなかったと思う、むしろ卒業後も亡くなるまで連絡を取る程度には交流があった。
割に仲良しだったのだ。

あれから、それこそ当時の年齢をもう一度往復した現在では、僕はもうあそこには住んでいないし、Y君との交流もすっかりなくなっている。

あの後僕は、地元から少し離れた高校と大学に進学して、ずいぶん離れた所で仕事をすることになる。

思い出というのは不思議な物で、当時はたいして価値が無いなと思った事でも、思い出すと結構楽しい。

中2の夏、熱中症で倒れたのだか、たまたま学校に来ていた学年のトップ3の地位を占める女の子が、ポカリなどをくれてやけに優しく声を掛けてくれた。

あれは結構青春だったかも知れない。なぜならその後少しばかり仲良くなり、持ちたてのケータイで何通もやり取りをしたのだ。
その後、仲良くしてくれた理由が、同名の男の子の名前を呼びたいが、恥ずかしいので、代わりに僕の名前を呼ぶ振りをして、その意中の男子生徒に話しかけていてらしい事がわかった。

けれど、真相が暴かれてもなお、それなりに仲良しだった。
手法として、随分手が込んでいるし、計画として意味不明ではあるが、だからこそよく覚えている。

幾分前の話なので、思い違いはあるだろうが、結構楽しい生活を送っていたかも知れない。

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