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日記 福島県沖地震/記憶の質量と総量

・昨夜、地震があった。
テレビで生中継される最大震度6強の文字、視覚的恐怖。

揺れている間と揺れが収まってからしばらくの間、体感的に11年前よりも怖かった。
当時私は中学生で、ソレが初めて経験する巨大地震だった。もの凄い揺れに混乱はしたものの、恐怖を感じたのはしばらく後、被害の全容を理解してからだった。

震災後11年をかけて自分のなかに染み込んで、大きな塊となった恐怖が、昨晩の地震で記憶として掘り起こされた。
眠りにつくまで体の震えが止まらなかった。


・コロナに始まり、欧州の侵攻に、大地震に、最近色んなことが起きすぎじゃない?と思ったけれど、コロナは別に最近の事柄というわけでもないか……。

多分私が社会に出る前にも、それこそ東日本大震災や、その他にも色んなことが起きていたんだと思う。
それなのに、今になって色んなことが起こる、スパンが短いと、そう感じてしまうのはきっと、私が歳を取って時の流れを早く感じるようになったのが原因だ。

人生を歩んできた所要時間に比例して、時の流れる体感速度は速まっていく。

“10歳の小学生のゴールデンウィーク1週間の密度”を1週間/10年と表現するならば、
“25歳の社会人のゴールデンウィーク1週間の密度”は1週間/25年になる。

分母が増えるたびに記憶も思い出も小さく刻まれていく。
圧縮されることなく、質量を失っていく。
人生における記憶の総量はきっと決まっているんだろう。


・薄く引き伸ばされた人生は嫌だなと、ずっと思っている。

若いうちは太さを保てている感覚があるんだけれど、錯覚だったらどうしよう。
こればかりは歳を取らないとわからないのかも知れない。

それでも歳を取ることへの漠然とした不安感は拭えないのだ。


・毎度、誕生日が近づくとこんなことばかり考えてしまうんですね。


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