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諦める

 私は多分諦めるという選択を取るのが早い。絶対にそれをやり遂げるまで死ねないという領域に至るくらい強固な意志を持って決めたことは滅多に諦めないが。そして私は諦めるということを気に入っている。何を言っているのかわからないでしょう。私もわからない。

 阿部智里さんの八咫烏シリーズに『烏百花 蛍の章』という短編集がある。私はその本のある章の最後のページに載っていた、

「諦めましたよ どう諦めた 諦めきれぬと 諦めた」
         外唄より 初代 都々逸坊扇歌

鳥百花 蛍の章

という都々逸坊扇歌に胸を鷲掴みにされた。あの時の衝撃が抜けないから、今でもこの言葉を何度も思い出しては形容しがたいじんわりとした気持ちになっている。あまりにも感動したものだから、その時一番好きだったアイドルの写真とこの扇歌をインスタの小規模アカウントにあげた。そしたら友達にどういうこと?意味わかんない。と言われて、なぜこの感動を分かち合えないのか……とショックを受けた記憶がある。だって、その諦めの対象を"好き"に絞ったとすれば、(というかこの本ではその使い方だと思う。)どうしてもその人を嫌いにはなれなくて、好きで居続けるしかないから、好きでいることをやめようとすることを諦めたってことになるから、その好きの気持ちの大きさに感銘を受けるでしょう。そんなに人を好きになるなんて中々ない。この本の舞台である烏が住む世界はもちろんファンタジーだし、身分の違いなどもあるからそういった意味でもやむを得ない"諦め"かもしれないがこの"諦め"は好き以外のさまざまなものに当てはめられると思う。

 例えば夢はどうだろうか。小学生、いや中学生くらいまでは夢というものを新学期などの自己紹介が必要になる場面で訊かれ続けた気がする。本気で願った夢ではなくても幼い頃にみた夢は心の中に残っている。大人になった今それを叶えることができないと頭では分かっていて現実も視えているのに、どこかそれに縋ってしまうというのがどのような気持ちなのか、なんだか実感できるようになってきた。これもそうだと思う。どうしても諦められないことをわかっているから諦めようとするのを諦めるのだ。言い換えてみたらその夢を諦めないということだろう。ただその諦念に達すると逆に吹っ切れるのかもしれないなとも思う。

 なんだか言いたいことの本質と違うことを熱く語ってしまったが、実際にこれまで何を諦めてきたのか?と考えてみると、例えば進路みたいな人生の一大決心のような大きな諦めは自分の中には思いつかない。思いつかない程度の小さな諦めを積み重ねてきたような気がする。諦めて良かったことも悪いこともある。でも、諦めざるを得なかった状況を認めてそれが正解だったと信じ込む。そうやって諦めてきた。最近は、すぐ諦めるせいで新しい人間関係をうまく築けなくなってきた。うまくというか深く。すぐ諦めるというのはとても都合が良いから傲慢にもなりうる。

 最初に述べたことをもう一度主張して言いたいことを締めるのが普通だが、書いていたら諦めることを気に入っているというのは本当に訳のわからない話だなと笑えてくる。まあ最初にもわからないと書いたからこれはこれで正解なのかもしれない。


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