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記録

三月十一日

 上野の街へ行った。東京都美術館での印象派の展示を観に行った。あたかも絵に理解があるかのような、その真価を享受しているかのような顔付きをして、熱心に作品を眺め、ある一定程度の時間をかけて作品と向かい合った後、次の作品へと目と足を移す。そんな作業をこなした。実に疲れた。しかし平日の昼間に一人で絵を見に来るという文化的生活を営んでいるという感覚がどこか心地よかった。文化の中に生きているふりをするこの醜さが愛おしくも感じた。それほどに私は人生に必死だったのかもしれない。自分の行動を肯定するためのこの行いが、少しばかり私の心を楽にした。

 おなかがすいたので、軽食をとることにした。私が人生のロールモデルとする人が以前訪れていた、「Coffee Shopギャラン」に行くことにした。美術館とは反対側であった。以外にも席は空いていて、すぐに通してもらえた。「支払いは現金のみですがよろしいですか。」入ってすぐに言われたこの言葉が昭和な喫茶店の中にも令和が訪れてしまっていることを物語った。幸いにも現金を持ち合わせていた私は昭和な人間として迎え入れられた。一人にはもったいないような三人掛け用の角席に通してもらった。お冷とおしぼりをもらった私はメニューをしばらく眺めていた。お決まりの頃お伺いします、その約束を守るように店員は私が注文を決めたころ注文を取りに来た。私はミックスサンドと、少し迷ったふりをしてからカフェラテを注文した。水の入ったグラスに窓から光が差し込み、机に模様を映した。私にはそれが非常に愛おしく、また幸せの真価をそこに見たような気になった。鞄から最近読んでいる梶井基次郎の『檸檬』を取り出して、私は文庫本の上にその模様を移すことに成功した。それは今までに見た光景の中で最も尊く、生涯忘れたくないと思えるような瞬間に私は確かに出会った。隣の女性がオムライスを食べ終わる前にカフェラテが届いた。そして間もなくミックスサンドも届いた。特別美味しいというわけでもないかもしれないが、どこでも食べられてしまいそうなそんな普遍的な味に安心感を覚えた。食べ終えてから、少し残っているカフェラテに胡坐をかき、しばし文庫本のページをめくった。このご時世において、堂々と店内でたばこに火をつけられる雰囲気が気に入った。私は吸わないけど。喫茶店文化を体験した。カフェラテを飲み干して、会計だけをする男性スタッフがたばこを吸い終えるタイミングを見計らって会計をした。店を出た。

 そのあとは上野の街を当てもなくただぶらぶらと手持無沙汰に歩いた。街の汚い部分を見た。楽しんだ。そして私はどこか無性に路地裏に趣を感じる性であるということを知った。その薄暗さ、歴史を物語る汚さ、人間の生活の跡、何とも言えないような独特の匂い、足を踏み入れてしまうともう元の世界に戻れなくなってしまうような求心力に魅せられていることに気が付いた。そんな路地裏をいくつかカメラで切り取り、満足して帰路に就いた。そんな二十歳の三月を過ごした。


#日記

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