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漆喰を塗らない土蔵たち

私は初めてこの土蔵を見たとき、漆喰を塗らずにほったらかしにして朽ちてしまうのを待っているという印象を持っていました。しかしそれは、私の完全な誤解でした。この土蔵は、そもそもこの土を塗り重ねることによって維持されている土蔵だったのです。

漆喰を塗らない土蔵

土蔵との出会い

私はちょっとした旅行で広島県と島根県の県境やその周辺をうろついていることがあります。北広島や三次、大朝等、とくに変化の少ない農村部のどかな風景が続くわけですが、広島市内と違って、田んぼが多く石州瓦のオレンジ色の瓦屋根があちこちに出現します。オレンジ色の瓦だけでなく黒色の瓦も交じりながらその地域独特の風景を作り上げているのです。広い田畑の景色の中に民家や小屋、土蔵がぽつぽつと建っています。都市部ではまず見られない光景で私は特に土蔵たちの個性的な姿に目を引かれました。特に私が記事にしたいと感じた”漆喰を塗らない土蔵”について書いてみようと思います。


土蔵とは何?

土蔵について簡単に説明します。

外壁を土塗りとして柱を塗り籠めた蔵。主に貴重品を収納する倉庫として用いられる。
木骨土壁の火に強い建物で、漆喰などを塗って仕上げる。(中略)
江戸期以降、土蔵は農家にも普及した。土蔵のほかにも構造によって、板蔵・石蔵・レンガ蔵などがある。

建築知識2023 9月号 和風住宅全史
東広島市西条の土蔵

土蔵は壁面に漆喰を塗り白壁のようにしているのが通常の土蔵のスタイルです。規模の大きなものは酒造や豪商の屋敷等で見ることができほとんどは白壁です。今の私たちと直接関係のないものとなりつつありますが、昔は貯蔵、防火、防犯の面でもフルに活用されていたようです。
広島の県北では田んぼを所有する農家が多く見られ多くの土蔵が残ります。
その土蔵の中に前述した”漆喰を塗らない土蔵”がいくつか残っています。
まず、私は調査の目的としている土蔵を持つ古民家を訪れることにしました。

現地調査

上本家住宅について

広島県北広島町にある入母屋造りの古民家を紹介します。

土蔵と茅葺屋根

上本家住宅主屋
この建物は、江戸時代末期(約150~160年前)に建てられたと考えられ、江戸時代の民家としては改造が少なく、当時の形式をよく保存しており、全体の間取りは、安芸の国北部の幕末から明治期の上層農家の典型である。

上本家住宅看板より

この古民家は祖母の家を少し古くしたような印象を受けました。
さすがに祖母の家は茅葺屋根とはいきませんが黒い大黒柱や、障子の開き戸、欄間や床の間、座敷や縁側など民家の共通点を多く感じました。

上本家内部

今まで古い建物といえば武家屋敷や洋館を見学することが多くて、ここまで身近な建物の内部を見ることはなかったと思います。
見学時に年配の夫婦がおりこの民家についていろいろ話を聞くことができました。どうやらこの家の持ち主ではなく、代理で管理している方とのこと。明治時代に武一騒動という新政府に対する一揆のようなものがあり、暴徒化した集団がこの家を襲ったため、大黒柱に傷があることを教えていただきました。
訪問時は熱い夏の日差しが外を照り付けていましたが家内部の温度は茅葺の屋根の力で涼しさが保たれています。

「いつまで残るかわからない」

と管理の方がおっしゃっていましたが、私もそう思いました。
この場所に来る途中の道で茅葺屋根の民家がもう一軒残っており、茅葺が朽ちて屋根の4分の3が崩壊していたのです。
幸い道路側に倒壊せず車が通ることはできるのですが、恐らく人の手が入らず管理をしていないのでしょう。この上本家住宅も大黒柱の傷が無ければ同じように朽ち果て撤去される運命だったのです。

次に、主屋とは別に離れのようになっている土蔵の話も聞いてみました。

管理人の方は元々住んでいる訳ではなく情報は少ないですが、次のようなことが分かりました。


上本家土蔵
  • 土壁は土の色のまま修繕する。白い漆喰は塗らない。これがこの倉のスタイルであること。

  • 屋根の瓦は石州瓦であること。

  • 恐らくこの民家と同時期に建てられた。(江戸期)

北広島町の民家においては、白壁土蔵(漆喰を塗る)が主流で数こそ多いものの、時折この石州瓦+土蔵(漆喰を塗らない)の形式が姿を見せるのです。

文献等調査

この”漆喰を塗らない土蔵”について同じような例が関西方面にありました。

出石酒造の土蔵

ところ変わって、兵庫県北部の豊岡市出石地区には「漆喰を塗らない土蔵」(出石酒造)が存在し酒造なだけあってかなり規模が大きい土蔵です。豊岡市観光公式サイトには次のような文言があります。

出石城下町を出石酒造に向かって歩いていると、赤い土壁が特徴的な酒蔵が見えてきます。
この酒蔵は270年以上前に作られました。通常は2~3層塗って、その上に白い漆喰を塗りますが、この酒蔵は6層塗りで壁の厚さは約40㎝、壁を塗るだけで2~3年かかります。

豊岡市観光公式サイト

ここに、”赤い土壁”という表現があり、酒造の壁面を見ると上本家の土蔵と同じような仕上がりとなっています。上本家の土蔵との共通点を挙げると、

  • 土蔵壁面の色が赤系の橙色であること。土の処理方法も似ている。

  • 漆喰を塗らず土を塗り重ねる形式を維持している古い土蔵。

となっており、漆喰を塗らない土蔵に相当する言葉として”赤い土壁”という言葉を用いて表現しています。
後々調べてみると、白い漆喰を塗る白壁の対局の言葉として、様々な文献に登場するようです。
”赤壁の倉””赤壁土蔵”等この種の土蔵のことを”赤”で表現するものもあれば単に”土蔵””土壁の土蔵”とだけ表記されているものもあり統一されたものがありません。
この項目以降からは赤壁土蔵という表現に統一することにします。

広島県における赤壁土蔵の分布

主屋と駄屋はあるが、倉をもつということは、農業の出世の象徴であった。しかし倉を建てても、白壁までつけ、瓦をあげるとなればこれまた大変だった。
神石、比婆、甲奴の各郡内は、畑作中心の地域であるが、赤壁の倉が多い。白壁までいかないのである。

広島民族の研究

上記は広島の県北とくに備後方面に関して土蔵の傾向(1989年頃)の引用文です。安芸方面に関しても赤壁土蔵が同じ広島の県北で見られるという共通点があります。
いずれにしても降雪量の多い寒い地域によく残っているということが傾向として見られ、これは前述した出石地区の酒造にも同じようなことが言えます。
一方県南部すなわち比較的海に近い温暖な地域では赤壁土蔵を見ることが少なく、白壁土蔵を見ることが多いです。ただ、赤壁土蔵と見違えるような漆喰のはがれ方をしている白壁土蔵は見ることはありますが。


上本家土蔵

赤壁土蔵を作る理由

前述した引用より白壁の土蔵を持つこと(漆喰を塗る)は大変なことであると記述がありますが、具体的にどのくらい大変なのかが文章から読み取りにくいと感じました。今回は福島県会津地方の民俗の文献から説明を補い、赤壁土蔵を持つ理由について考えます。

シックイ土蔵を建てることはいわゆる贅沢普請で、これは経済的に容易でないので砂壁がかなり多い。赤壁土蔵といわれる防火の目的であるが密集住宅内ではシックイ土蔵よりは耐火度が低く、耐震性や寿命もすくない。(中略)
砂壁にシックイで仕上げることは、もう一つ土蔵を建てるほどの費用と手間と時間を要するといわれる。

磐梯山南郷の民俗:風土と人生

※上記引用で赤壁の土蔵のことを「砂壁」と表記しています。漆喰を塗らない赤壁の土蔵にも様々な仕上げ方法があると思われますが今回はその方法については省略します。

上記引用からわかることは白壁土蔵の漆喰はとにかくコストがかかるということです。主屋で火事があることも想定し大事なものを保存するため、最低でも蔵は建てておきたいが、コストを抑えたい場合に赤壁が選ばれるのでしょう。長年土蔵を使用していて外壁の痛みが発生する場合でも、漆喰を使用しなければ修繕費を安く抑えることができます。見た目も赤壁土蔵の方が痛みの箇所が目立ちにくいかもしれません。

反対に前述した海に近い県南部で白壁土蔵がよく見られるのも、山間部に比べて港や街道で人の往来が多く、町の発達が顕著で多数の庄屋や豪商がいて財力がある人の占める割合が多かったためと考えます。
赤壁土蔵の弱点である3要素(耐震性、寿命、耐火性能)に関しては、広島と福島では様々な事情や地域差もあると考えており、十分な調査を行ったうえで結論を出したいです。

終わりに

分からないこと

ただ、この赤壁土蔵に関してはまだまだ不明点が多く、今後この不明点を解消できるよう調査を重ねていきます。

  • 明治から現在にかけて赤壁土蔵の数の推移、分布。

  • 現状農家が所有する土蔵で赤壁、白壁が混在している理由

  • 赤壁土蔵の表面処理について (下塗り、中塗り、上塗り)

(調査対象としては主に広島や中国地方。わからないことが随分と多くてごめんなさい。)

土蔵のこれから

広島市安佐南区佐東町緑井の農業鋤田達登さん(八十三歳)は「昔は庄屋か大地主でなかったら倉は必要なかったのう」といわれる。鋤田さんの子供のころ(明治三十年頃)四十戸ほどの集落で三戸にしか倉はなかったという。(中略)
農民が倉を建てるということは、経済的自立を意味し、社会的地位の確立を社会に承認されることである。「大きな主屋に白壁の倉」といえば、絶大な家格であった。

広島民族の研究

現在の安佐南区緑井周辺には昔広がっていたとされる田園風景は一部を除いてみられません。田畑の多くは道路やマンション、住宅地へと変わっています。昭和21年に制定された第2次農地改革によりオール自作農化し、明治時代にあったような地主と小作人の関係もなくなりました。
白壁の土蔵はいくらか点在しているものの、土蔵を持つとか持たないとか白壁か赤壁で格が決まる時代はもう昔話です。もうそんな話すら誰も知らないかも知れません。

小さな赤壁土蔵というのは、「漆喰はなくてもいいから土蔵を建てて自立したい」という小さな農民たちの思いを反映した建物だったと思います。

島根県の赤壁土蔵

現在の時代であって、たとえこの背景を知らなくても、「あたりまえのこと」として赤壁土蔵の形式を維持している人達がいることで、一つの時代の物言わぬ記録として残っているのでしょう。

私はこの赤壁土蔵が好きです。この土蔵を見るとき、土を塗った素朴な外壁にすべての始まりのような何かを常に感じます。私自身はそこがまだすべて明らかにできていないので、何とも言えないもどかしさがあり、個人の勝手な願望でずっと残っていてほしいです。

滋賀県の赤壁土蔵

ただ、時代の経過とともに土蔵は壊されその数は減り、文化財でない古いものを次の時代に持っていくのは中々困難な状況です。私のできることは少ないですが、この赤壁土蔵を記録することで「そんなものはなかった」とは言わせない説得力のある記事を作っていこうと思います。

参考文献

広島民俗の研究
神田三亀男 1989年

磐梯山南郷の民俗:風土と人生
橋本武   1979年

建築知識2023 9月号 和風住宅全史
三輪浩之  2023年

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